山口県教育委員会 教職員課 須藤恒史主幹の件 |
また、教職員課の伊藤定好先生(山口大学 昭和61年)には、平成23年5月17日(火)、勤務先上司を交え、教職員課 伊藤定好先生(山口大学昭和61年)から学事指導を受けた内容については、Google ウェブ検索上において「山口大学 経済学部長」と入力すれば、以下 ブログ記事についてが、平成23年5月31日(火)現在、トップ検索のヒットもされることを 教職員課 伊藤定好先生(山口大学昭和61年)、及び、勤務先の上司 皆様には通知した。
山口県商業教育について、広島修道大学大学院で会計学、学ばれた松本博己先生と慶應義塾大学で計量経済学を学んだ私の統計知識について、うまく調和させて、統計分野については、今まで、山口県の商業高等学校において、各生徒については、未学習、未履修、全く、未開拓学習分野であるので、可能な限り、各商業科目の分野においても、統計学等の関連する教育内容について充足に努めていきたい私の胸の内についてを平成23年5月31日(火)に、山口県教育委員会 教職員課 須藤恒史主幹にも告げた。
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Googleの ウェブ 検索上において 「山口大学 経済学部長」 と入力すれば ↓
『平成23年5月2日(月)に、山口大学 経済学部長 河野眞治教授と「産業連関表」について、私は、山口大学 経済学部長室にて対談する。慶應義塾大学において、恩師 西川俊作教授、鈴木諒一教授、井原哲夫教授、小尾恵一郎教授、辻村江太郎教授から受けた計量経済学 等の講義内容、吉岡完治教授から「産業連関表」の教え、その話題提供 等を私から、山口大学 経済学部長 河野眞治教授にする。河野眞治教授からは、山口大学 経済学部においては、「産業連関表」の講義内容、いつ頃から、それが開始されたかのお話も聞ける。』
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生かされた苦 継ぐ学び
【成沢解語】「The world was forever changed here(世界はここで永遠に変わってしまった)」
71年前の「あの日」を、米国の現職大統領がそう語った。そして、続けて、こうも言った。
「今日、この街の子どもたちは平和に暮らしている。なんて尊いことだろう。それは守り、すべての子どもたちに与える価値のあるものだ」
27日の平和記念公園(広島市)であったバラク・オバマ(54)の演説を、山口県立大学(山口市)で副学長を務める加登田恵子(かとだけいこ)(60)は「子どもたちのことを意識したメッセージだった」と受け止めた。
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戦後10年目の年に、広島市の爆心地から1・5キロの場所で生まれた加登田は昨年、自らの研究室のゼミ生9人とともに、被爆者7人のオーラルヒストリー(口述記録)に取り組んだ。「県原爆被爆者支援センターゆだ苑(えん)」との共同プロジェクトである。
被爆体験といっても一様ではない。
広島市で兵隊として勤務中に被爆し、火の海になった街を目の当たりにした男性。「私は一生嫁に行かれん身体じゃ」と思い詰め、自殺未遂をした女性の体験も語られた。その成果をまとめた冊子「被爆70年 平和のバトン~原爆被爆者のライフヒストリーを追って~」には学生のこんな文章が載っている。
「戦争は人と人が殺し合うだけでなく、自分自身で死を選択させる場合もある本当に恐ろしいものと感じました。お話をお聞きして、生きる大切さも教えていただいた気がします」
加登田は言う。
「『あの日』だけじゃない。被爆者として生かされるつらさがある。だから、二度と繰り返してはいけないことを改めて後世に伝える必要があるのです」
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広島訪問前のオバマが立ち寄った岩国市。その商店街の一角で、杉田時計店を営む杉田和久(すぎたかずひさ)(57)は、インターネット中継でオバマの演説を見ていた。
杉田は1977年、山口大学に入学し、先輩の誘いで「山口大学ユネスコクラブ」に加わった。同クラブは、原爆が投下された広島市から、傷ついた体で山口市まで歩いた被爆者の体験を引き継ごうと、原爆廃止などを訴えて山口から広島までを歩く「平和キャラバン」などの活動で全国的な知名度を誇った。
杉田は、被爆者の実態調査を進めるため、「ゆだ苑」で永松初馬(ながまつはつま)(故人)とも向き合った。20歳の時に広島で被爆し、泣き叫ぶ赤ん坊を置き去りにして逃げたことを胸に刻み、平和運動に生涯を捧げた永松。鋭い眼光と低いだみ声で発せられる永松の言葉に、杉田は圧倒された。
そんな永松とのつながりをつくったのが、当時山口大学経済学部長だった安部一成(あべかずなり)(同)である。
安部は、経済学の専門家として教鞭(きょうべん)をとる傍ら、社会との関わりを大切にした知識人だった。県内の研究者グループを結成したり、日中友好活動に取り組んだりもした。そして、被爆者支援をライフワークとした。
「ゆだ苑」をリードしてきた永松が91年に交通事故で急逝すると、その後任を任され、被爆者ではない初の理事長となった。「ユネスコクラブ」の顧問も引き受けるなど、2011年に亡くなるまで、平和と研究をひたすら追い求めた。
昨年11月、その「ユネスコクラブ」の同窓会が京都市で開かれた。「ゆだ苑」第6代理事長の岩本晋(いわもとすすむ)(73)も迎え、40~60代の約20人が参加して思い出に花を咲かせた。
杉田は、その場で最後に、「OBとして何らかの支援を続けていきたい」と発言した。現在の山口大学に「ユネスコクラブ」はない。それでも、「クラブの取り組みは、今でも意義がある」と信じるからである。=敬称略
・・・ 2016年05月29日、朝日新聞デジタル 配信より