【至誠の人 楫取素彦物語】中村紀雄(1)近代日本を築いた力 |
港を出て行く船が見える丘にたち、楫取素彦(かとりもとひこ)と美和子は沈みゆく夕日を眺めていた。すれちがう船の航跡が薄く染まり海の半ばまで道ができたように見える。右に目を転じると、指月(しづき)山が影絵のように見えた。
「ここからあの指月山を眺めると、今まで生きてきた月日が浮かび上がってきて夢のようだな。すべてのことが、まるでつい昨日のことのように思える」
70歳半ばを過ぎた素彦はベンチに腰をおろし、美和子に向き直って言った。指月山の上の雲が薄紫に染まっている。春の暮れゆく淡い光が空一面を覆い、海までおりてきた。
「本当でございますね。なにもかもがここから始まったのですわ。不思議に思えます。群馬も遠くなりました」
美和子は遠くを見る目になった。
「松陰殿や晋作、玄瑞らと、新しい国づくりをみんなで熱く議論したことが懐かしい。彼らに、こんなに変わった今の日本をみせてやりたいものだ」
「あなたは立派な仕事をなさいました。あの世で皆さまにご報告できますね」
「あはは、私の方が早く逝くことになろうから、玄瑞には、お前に世話になったことを話さねばなるまい」
「私だって、そんなに長くはお待たせしませんわ。それに、私は寿姉さんに話すことがたくさんありますもの」
「そうだな。だが、お前はまず玄瑞に、来し方を話すのが先だろう」
空が薄墨色に染まるのを見届けて、ふたりはゆっくりと丘を下った。
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文政12年、1829年という年は明治が始まる39年ほど前のことで、江戸の幕藩体制の矛盾と行き詰まりがいよいよ顕著になって来た頃である。文政期はこの年で終わり翌年から動乱の天保期に入る。
長州萩は不思議なところである。ここから近代日本を作り出す力が生まれた。萩に今魚店(いまうおのたな)町と呼ばれた一角があった。日本海に面し眼前の海中には指月山を背にした萩城が立つ。広い港湾には諸国の船がしきりに出入りし活気に満ちていた。
この町に藩医松島瑞蟠(ずいばん)の屋敷があった。文政12年3月、松島家に次男が生まれた。名は哲、通称は久米次郎といった。後の楫取素彦である。兄は剛蔵で、後に生れた弟は乾作(けんさく)。三兄弟とも優れた天質に恵まれ、幼児から学問等修練して頭角を現していく。
環境が人をつくる。歴史が、その環境をつくる。
慶長の怨みを呑んで立つ萩城が静かに深く全てを語っていた。関ケ原で敗れた毛利は領土の大半を奪われて西国の小さな所に押し込められた。
時至らばという徳川への思いが二百数十年密かに維持されたことは驚くべきことである。この歴史が多くの人材を育てることにつながったのだ。
「今年あたりやりますか」
「いや、まだ早かろう」
新年に、登城した時の挨拶がこのような習慣になっていたというのも面白い。
久米次郎はこのような歴史的環境の中で育った。藩校明倫館に入学する以前から名ある師の塾に通ったが、彼の中で育ったものは知識だけではない。「私」を超えて社会に奉仕するという思想を日々の空気のように無意識に吸いながら志を育てたのである。
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毎週火曜から3回掲載します。
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■中村県議「郷土の偉人 学ぶべきだ」
県議会の一般質問が2日行われ、この春で勇退する中村紀雄県議(自民)が最後の質問で初代県令・楫取素彦について、「郷土を築いた偉人として人々がもっと理解する必要がある」と述べ、県民に周知する必要性を強調した。これに対し大沢正明知事は、道徳教育などを通じ、子供たちに理解を深めてもらう考えを示した。
中村県議は、「楫取は道徳教育に力を入れ、女性解放に尽力し、女性の人権を尊重した」と功績をたたえ「これらは今日の社会で大きく学ぶべきことだ」と強調。楫取を周知するための具体策の提示を求めた。
大沢知事は「子供たちが楫取をはじめとした先人たちの姿などを道徳教育の中で学ぶことを通じ、郷土への誇りや豊かな心、たくましく生きる力を育み、成長していけるよう取り組んでいきたい」と答弁し、楫取の功績を広める意義について共感を示した。 ・・・ 平成27年3月3日(火)、産経新聞 7時55分配信より
私のコメント: 萩に今魚店(いまうおのたな)町と呼ばれる一角がある。そこに、長崎 滝塾 シーボルト医師と親交が深かった萩藩 御用商人 熊谷家の住宅 蔵屋敷が、海沿いにあり、日本海に面し、眼前に、指月山を背にした萩城が立つ。広い萩港湾には、諸国の船がしきりに出入りし蔵屋敷は、活気に満ちていた。萩藩 御用商人 熊谷家 蔵屋敷の近くに、藩医松島瑞蟠(ずいばん)の屋敷もあった。文政12年3月、松島家に次男が生まれた。名は哲、通称は久米次郎といった。後の楫取素彦である。