<ボース墜落死>直前に操縦交代 元整備兵が証言 |
終戦直後に台湾で日本陸軍機が墜落し、インドの独立闘争指導者、スバス・チャンドラ・ボースが死亡した事故で、ボースらとともに陸軍機に搭乗していた元整備兵が毎日新聞の取材に初めて事故前後の詳細な経緯を語った。インドでは「生き残ってソ連に亡命した」などのボース生存説が根強く、謎の事故とされてきたが、元整備兵は操縦士が離陸直前に急きょ代わったことなど新たな事実を証言した。【砂間裕之】
元整備兵は、長野県松本市の野田正利さん(96)。事故で腰や背などに重傷を負ったが、一命を取りとめた。
日本政府が連合国軍総司令部(GHQ)に提出した外交文書などによると、陸軍機は両翼にプロペラがある97式重爆撃機。1945(昭和20)年8月17日にベトナム・サイゴン(現ホーチミン)を出発し、ツーラン(現ダナン)で1泊後、18日に台湾経由で満州・大連に向かう計画だった。旧ソ連亡命を希望したボースら計14人が搭乗していたとみられる。18日午後、台北の松山飛行場を離陸直後に左側のプロペラが折れ、エンジンも落下。墜落して炎上した。
野田さんの証言によると、爆撃機はシンガポールの陸軍第3航空軍の所属機で、野田さんらが整備を担当していた。松山飛行場での離陸前点検では異常はなかった。ただ、台湾までは第3航空軍の准尉が操縦したが、離陸直前に「搭乗していた上官の一人が『俺が操縦する』と言って代わった」という。
野田さんは「交代した上官は知らない人だった。以前操縦していたと話していたが、司令部の命令もなく代わるのはあり得ない」と話し、交代が事故の遠因になったとの見方を示した。
搭乗者数や荷物が多く積載量が相当重かったうえ天候も悪く、プロペラやエンジンへの負担が大きかった可能性があるという。プロペラは金属の3枚羽根で、野田さんは「不慣れな人の操縦でさらに負担がかかり、折れてしまった可能性がある」と推測する。
事故機は以前、滑走路をオーバーランして土手に激突する事故を起こしていた。曲がったプロペラを金づちでたたいて使用していたとの別の証言もあるが、野田さんは「エンジンやプロペラは全て替えた」とし、墜落との因果関係を否定した。ボースは陸軍病院に搬送されたが、全身やけどなどで同日夜に死亡。ほかに少なくとも4人が命を落とした。
◇生存者の話に驚き
約40年前に事故を取材したノンフィクション作家、柳田邦男さんの話 操縦士の交代に問題はないが、その技量が問題だ。事故機は積載重量を超えていた可能性が高く、エンジンの回転数を限界以上に上げたため、プロペラに負担がかかり、折れたのだろう。私の取材では、飛行中の異常振動の証言があったが、簡易なエンジンテストや目視検査で不具合を見つけるのは難しい。いずれにしても、70年以上たって生存者の話が出てきたことに驚いた。正式な調査はなかったので、貴重な証言だ。
【ことば】スバス・チャンドラ・ボース
1897年にベンガル地方の名家に生まれた。高等文官試験に合格したものの、インド独立運動指導者のガンジーに共鳴し、「国民会議派」に加わった。カルカッタ市長や国民会議派議長を務めるが、第二次大戦で急進的な独立闘争に傾き、ガンジーと決別。41年に軟禁中の自宅から逃げ、ドイツに亡命した後、潜水艦を乗り継いで日本に渡った。43年10月、シンガポールで自由インド仮政府を樹立し、日本軍のインパール作戦にインド国民軍を率いて参加した。 ・・・ 平成28年5月12日(木)、毎日新聞 8時40分配信より
私のコメント: 平成28年5月12日(木)、山口県柳井市教育委員会 人権教育室 次長 中西淳氏から自宅に連絡が入り、柳井市教育委員会 人権教育室 次長 中西淳氏と私は、対談した。その対談内容、個人情報における保護との関係もあり、 私と柳井市長との間にて、その話し合いをされ、その決着つけていただきい旨の連絡が入った。