平成29年度津和野藩主亀井家墓所の国史跡指定の意見具申について |
平成29年9年9月21日、山口県岩国市吉川史料館原田史子学芸員様へ連絡対応を取らせていただきました内容に関して、
私からのお尋ねを申し上げた「岩国市岩国藩主吉川家墓所史跡」は、
「 岩国市 岩国藩主吉川家墓所 史跡
昭和63年3月29日(山口県教育委員会告示第二号)
由来及び沿革
吉川家墓所は、岩国に入府した吉川家17代家(岩国吉川家初代)から28代経幹(岩国吉川家12代)までの、当主及びその一族の墓所である。
吉川氏は、藤原南家の支流入江氏の出で、駿河国入江荘吉河邑(静岡県清水市)を本質とする東国武士である。13世紀の 4代経光の時代に、承久の乱の勲功として安芸国山県郡大朝本庄(広島県大朝町)の地頭職を与えられ、正和2年(1313年)5代経高の時代に大朝本庄に移った。
16世紀の吉川氏は、播磨国や石見国の一部にも勢力を張る戦国大名に発展したが、東の尼子氏と西の大内氏・毛利氏の対立の中で、天文16年(1547)毛利元就の次男元春を養子に迎え、毛利一門となった。以後、吉川氏は、元就の三男隆景が家督を継いだ小早川氏とともに、毛利氏を補佐し毛利氏が戦国大名として発展することに尽力した。
岩国吉川家の始祖となる広家は、この元春の三男で、兄元長の病死により、天正19年(1591)、安芸国旧館、伯耆国3郡、出雲国3郡、隠岐国14万石の家督を継いだ。
その後、慶長5年(1600)、関ケ原の戦いで、毛利氏は西軍の主将として徳川氏と戦い敗れたが、毛利の一軍として参戦した吉川広家は、内々徳川方と通じ、戦後毛利家の存続に努めた。そのため、毛利氏は、敗軍の将であるにもかかわらず周防・長門の二ヵ国を受領したが、吉川広家はその功績により毛利氏の領国の内、玖珂郡・大島郡の内3万石(のち6万石)を拝領した。
慶長6年(1601)、岩国に入府した広家は、横山山頂に岩国城を築き、城下町を建設し、知行地を検分して藩制を整備した。その後、岩国吉川氏は、広正・広嘉・広紀・広遶・経永・経倫(徳山藩主毛利広豊の末子)・経忠・経賢・経札・経章・経幹・経健と続き、13代、270余年にわたって在封した。
明治元年(1868)、朝廷は、毛利氏の末家として、経幹(慶応3年に死去)を諸侯に列し、城主格を与えた。岩国藩が成立するのはこの時からで、この間2代広正以降、幕府からは、正式には、諸侯に列せられなかった。しかし、江戸には邸宅を与えられ、四季折々の献上と家を継いだのち登営し将軍に謁見することを許されており、また、幕府から諸侯に課する諸普請や諸課役も諸大名並みに賦課されていたので、実体は諸侯に準じる扱いを受けていたと考えることができる。
墓所が形成されるのは、寛永2年(1625)広家が没した年からで、洞泉寺裏山に広家の墓所が営まれる(資料1図中NO.4)。つづいて、寛永18年(1641)広家後室光寿院が没して、その供養のため新豊院(浄土宗、のち光寿院、実相院と改称)が再興され、その境内に墓所が営まれた。場所は、広家墓所の北に続く同じ山腹である(昭和20年山崩れで崩壊)。2代広正の室高玄院は、広正に先立ち正保元年(1644)に没しているが、その墓所もこの新豊院境内に営まれた。
吉川家墓所の中心を占める地区、寺谷口御塔場(資料1図中NO.1)は、2代広正が没した翌年、寛文7年から造営が始まった。この経緯については「好問随筆」(岩国徴古館)に詳しい。
墓所造営は、広正が没した寛文6年の秋に3代広嘉より沙汰があり、翌年正月家臣戸川理佐衛門が大坂へ登り石工を調達し、石材は大畠石神で採取している。墓所造営は、長崎より招請した独立禅師(明の書家、医家)に采配させ、同年2月7日より普請を始めている。墓所造営予定地は、家臣の屋敷地だったため、2月27日に竹下長佐衛門ら、3名の家臣に屋敷を明け渡させ同日これを解いている。造営は5月3日に成就したが、この間光寿院(新豊院を改称)の高玄院墓所を解き(後実相院と改称後、跡地には6代経永の墓所が営まれた)、洞泉寺(禅宗)に葬られた広正とともに中心部に石塔を建て納骨を行った。両石塔の刻銘(戒名)は、独立揮毫である。
また、3代広嘉(玄真院)の墓は、広正室の高玄院の墓石の横に、延宝7年(1679)に造営された。記録(岩国藩御用所日記)によると、11月5日に造営成就したが、石塔建立には約350~360人の人夫が当たり、御塔場建設が、大工事だったことが知られる。また、玄真院墓石の刻銘(戒名)は学僧竹渓昌筰の揮毫である。
現在の墓所の景観は、寛文7年のこの墓所造営以降順次形成されていったもので、広正・広嘉以降の代々の墓所は、この墓所の前面及び背面に広がっていった。初代広家の墓所が営まれた山腹には、12代経幹夫婦の墓所及び代々の藩主の子女、側室(妾)の墓も営まれている。
構造及び形式
今回指定申請がなされた地域は、寺谷御塔場と称する地区及びその裏山で、面積9,615㎡(実測)を測る。
墓所は、木立と土塀にに囲まれ、霊域として盛厳な雰囲気を保っている。
墓所の構造は、明治時代のはじめに描かれたと見られる「御塔場図」(岩国徴古館)で確認することができる。まず、御塔場の正門を入ると遥拝所と倉が置かれている(現在は撤去)。遥拝所跡地の南には現在寛政6年銘を持つ鳥居があるが、この図には示されていない。後日移したものと思われる。鳥居をくぐると、正面には土塀で区画された墓所が広がるが、正面は8代経忠夫妻の墓所であり、そこから西奥に代々の墓所が造られている。また、遥拝所跡地の西奥は広い平坦地となっている(指定対象外)が、「御塔場図」には「元横道屋敷」及び「元清泰院」という記載がある。このうち清泰院は、3代広嘉室の天長院が元禄年間に建立した法華宗の寺院で、明治3年に廃寺となっている。この広い平坦地には現在円筒形の納骨堂がある。これは昭和39年に建立されたもので、初代広家をはじめ代々の当主及びその一族の御霊が納められ、また、吉川家の墓所として使用されている。
指定申請地内には、岩国吉川家初代広家から12代経幹までの11公(6代経永を除く)とその室や子女の墓51基、石灯籠95基、手水鉢9基がある。
51基の墓石のうち大半は五輪塔で34基を数え、他は板石13基、笠塔婆3基、宝篋印塔が1基である。この内、板石は寛永期から寛文期までの古い時期と、文政期以降の新しい時期に見られる。
当主及び室の墓石を見ると、初代広家、10代経札、11代経章、12代経幹、経幹室の5名が板石であり、高さ280~315㎝の規模である。他の当主及び室は、いずれも五輪塔で、高さ331~389㎝の規模を測る。広家の母吉川元春室の墓石は、やや小振りで高さ260㎝を測る。この墓石は、慶長期の五輪塔で、元々万徳院(横山)にあったものを、明治初年に現在位置に移したものである。
当主の子女の墓石は、広家及び広正の子女の合葬墓(明治初期に造られる、墓石番号31)や明治以降に造られたと見られる広正の子息の墓(墓石番号33・34)などが板石であり、また、広家十七女宮鶴姫の墓石(墓石番号45)が唯一の宝篋印塔であるのを除いて、大半は五輪塔で、高さ122~210㎝の規模を測る。
側室(妾)の墓石は、五輪石2基、板石2基であり、うち3基は高さ194~215㎝を測るが、高さ132㎝の板石墓石(広家、広正の妾の墓、墓石番号38)は明治以降の合葬墓である。
石灯籠及び手水鉢のなかには、12代経幹夫妻の墓所にある「誰が袖の手水鉢」と初代広家墓所にある「みみずくの手水鉢」など、優れた工芸品も遺されている。前者は京都の小掘家から贈られたと伝えられる遠州好みの手水鉢である。幕末安政3年に本藩毛利敬親と12代経幹が手を結んだとき、横山の御館にあったものを萩に持参したと伝えられ、本品はその写しとされている。また、後者は芸州藩の家老であり茶人でもあった上田宗箇が広家に贈ったと伝えられるもので、長く今津の淨浄念寺にあったものを明治40年に現在地に移したものである。」 山口県庁 文化財要録における、配信内容に関する、説明をしていただいた。
以上の引用は、山口県庁 ホームページの下記より、
1. 指定文化財の検索(一覧から選ぶ)>
2.文化財の概要>
3.文化財要録
また、平成29年9年9月21日、山口県岩国市吉川史料館原田史子学芸員様との連絡 対応を持った後、山口県岩国市文化財保護課職員と対談し、山口県教育委員会社会教育・文化財課文化財保護班職員とも私は、対談をいたしました。その後、山口県萩市総務企画部総務課秘書室主査の許へ 私は、連絡を入れて、萩市農業委員会による、その私に対する農政対応あるため、山口県萩市長並び、萩市総務部より、国内における各文化財 保存・維持活動に関し、その善処を求めています。