亀井家第16代当主「昭和天皇に東宮侍従として仕えた祖父の日記を『実録』のために貸出」 |
2014.10.10 07:00週刊朝日
亀井家第16代当主の亀井茲基(これもと)氏は、先祖の偉業の1つとして昭和天皇に東宮侍従として仕えた祖父の話をこう語る。
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幕末に津和野藩(島根県津和野町)はピンチとなります。4万3千石の小さな藩なのに、となりは倒幕の大藩、長州藩です。幕府軍が長州征討に来たときには、完全に板挟み状態でした。
中立でいたかった津和野藩ですが、幕府軍の一員として組み込まれてしまいます。その上、幕府軍の目付(めつけ[指揮官])一行が津和野城下に入り、それを知った長州は津和野に攻め入ろうとしました。
それほど広くない盆地に広がる津和野の町は、数発の砲弾で火の海になってしまいます。最後の津和野藩主、12代・茲監(これみ)は、どうしたと思いますか? 幕府軍の目付を長州に引き渡したのです。その後、目付を無事に取り戻してもいる。粘り強い外交で幕府と長州の双方を説得し、津和野を戦火から守った。身内ですけど、茲監は大変な名君です。
次の13代・茲明(これあき)については、若くして亡くなっているし、話題の少ない代だなと思っていました。
ところが、今から30年以上前かな。蔵の整理をしていると、茲明の描いた絵や使っていたカメラが出てきました。茲明は、ベルリン大学に留学して美学・美術史を専攻するかたわら、カメラ技術も身につけていたんですね。そして、留学から帰ってしばらくすると、日清戦争がはじまった。
茲明は虚弱体質でしたが、それでも国のために何かしたいと考えました。そこでやったことがすごい。私費で写真班を結成して、従軍撮影をしたのです。日本初の従軍写真家でした。
当時のカメラはとても大きくて重い。フィルムではなくて、ガラス乾板の時代です。自動車もないですから、大八車8台に、カメラ7台とガラス乾板や機材を積んで戦場へ向かいました。写真の専門家がおっしゃるには、午前1枚、午後1枚撮れればいいほうだったようです。やらせの元祖みたいな写真もあります(笑)。
捕虜を雇って戦地を進むのだけど、キツすぎて捕虜が何人も逃げ出したらしい。もちろん、過酷なのは茲明も一緒でした。従軍撮影の無理がたたり、帰国して1年ほど後に、35歳で亡くなりました。
茲明の撮ったガラス乾板は、第2次大戦中に陸軍が従軍写真展を開くというのでお貸ししました。すると、写真展の会場が空襲にあって、ガラス乾板はぜんぶ灰になった。幸い、茲明の息子の茲常(これつね)がすでに写真集にして出版していましたから、今でもほとんどの写真を見ることができます。
茲常は私の祖父です。東宮侍従として皇太子時代の昭和天皇に仕えました。欧州訪問にも供奉(ぐぶ)しています。先ごろ話題になった「昭和天皇実録」のために、祖父の日記をお貸ししています。
父の茲建(これたけ)は、大学生のときに「左翼学生」として治安維持法違反で逮捕されています。当時は「赤色華族」としてだいぶ騒がれたようですが、この一件については生涯語ることはありませんでした。大学卒業後の父は、興銀に勤めるサラリーマンとなりました。
うちは名前に代々「茲」がついていますが、これは跡継ぎだけ。政治家をしていた私の弟・久興(ひさおき)に茲はついていません。久興の久は祖母・久から、興は興銀からとっているんですよ。
(構成 本誌・横山 健)
※週刊朝日 2014年10月17日号 ・・・ 2014.10.10 週刊朝日 07:00 配信より
私のコメント : 過去、 亀井家第16代当主亀井茲基氏と私が、面談したおりには、島根県 津和野町政、並び、津和野町史、島根県 柿木村、六日市町、当該 吉賀町史に関係する 吉賀記についての、島根県 吉賀町教育委員会より、それを現代語訳する前に、その面談をし、私の父、森田良吉氏 ( 元 山口県文書館 研究職員 )、宮内庁 書陸部、大久保 利謙教授との間における学術交流、西周全集 1960年 発刊した当時の状況、宮内庁 書陸部、大久保 利謙教授から、その尽力いただいていた 当時の津和野町史 編纂事業についても、亀井家 第16代当主亀井茲基氏には、私から、説明を申し上げることができている。また、そのおり、亀井亜紀子代議士おかれては、学習院大学 在学中、その当時 学習院大学 宮様へ、学力における増進のための支援 諸活動、そのご奉仕なされていた状況についても、大久保 利謙教授から、私どもは、拝聴いただいている内容、また、その当時は、私の父、森田良吉氏と学術交流の諸関係により、大久保 利謙教授からは、私の恩師にあたる慶應義塾大学 西川俊作教授に対して、その歴史部門における学術支援なされていた状況、説明を申し上げている。
【歌会始】 両陛下や皇族方のお歌、入選者らの歌一覧
2017.1.13 11:56更新
天皇、皇后両陛下と皇族方のお歌、入選者らの歌は以下の通り(仮名遣い、ルビは原文のまま)。
天皇陛下
邯鄲(かんたん)の鳴く音(ね)聞かむと那須の野に集(つど)ひし夜(よる)をなつかしみ思ふ
皇后陛下
土筆(つくし)摘み野蒜(のびる)を引きてさながらに野にあるごとくここに住み来(こ)し
皇太子さま
岩かげにしたたり落つる山の水大河となりて野を流れゆく
皇太子妃雅子さま
那須の野を親子三人(みたり)で歩みつつ吾子(あこ)に教(をし)ふる秋の花の名
秋篠宮さま
山腹(さんぷく)の野に放たれし野鶏(やけい)らは新たな暮らしを求め飛び行く
秋篠宮妃紀子さま
霧の立つ野辺山(のべやま)のあさ高原の野菜畑に人ら勤(いそ)しむ
秋篠宮家長女眞子さま
野間馬(のまうま)の小さき姿愛らしく蜜柑(みかん)運びし歴史を思ふ
秋篠宮家次女佳子さま
春の野にしろつめ草を摘みながら友と作りし花の冠
常陸宮妃華子さま
野を越えて山道のぼり見はるかす那須野ヶ原に霞たなびく
【召人】
久保田淳さん
葦茂る野に咲きのぼる沢(さは)桔梗(ぎきやう)冴えたる碧(あを)に今年も逢へり
【選者】
篠弘さん
書くためにすべての資料揃ふるが慣ひとなりしきまじめ野郎
三枝昂之さん
さざなみの関東平野よみがへり水張田(みはりだ)を風わたりゆくなり
永田和宏さん
野に折りて挿されし花よ吾亦紅(われもかう)あの頃われの待たれてありき
今野寿美さん
月夜野(つきよの)の工房に立ちひとの吹くびーどろはいま炎(ひ)にほかならず
内藤明さん
放たれて朝(あした)遥けき野を駆けるふるさと持たぬわが内の馬
【入選者】(年齢順)
岐阜県 政井繁之さん(81)
如月(きさらぎ)の日はかげりつつ吹雪く野に山中(さんちゆう)和紙の楮(かうぞ)をさらす
東京都 上田国博さん(81)
歩みゆく秋日(あきひ)ゆたけき武蔵野に浅黄斑蝶(あさぎまだら)の旅を見送る
長野県 小松美佐子さん(80)
宇宙より帰る人待つ広野には引力といふ地球のちから
千葉県 斎藤和子さん(71)
筆先に小さな春をひそませてふつくら画(ゑが)く里の野山を
東京都 平田恭信さん(68)
手術野(しゆじゆつや)をおほふ布地は碧(あを)み帯び無菌操作の舞台整ふ
東京都 西出和代さん(64)
父が十野菜の名前言へるまで医師はカルテを書く手とめたり
宮城県 角田正雄さん(62)
積み上げし瓦礫の丘に草むして一雨ごとに野に還りゆく
新潟県 山本英吏子さん(42)
友の手をとりてマニキュア塗る時に越後平野に降る雪静か
東京都 鴨下彩さん(17)
野原ならまつすぐ走つてゆけるのに満員電車で見つけた背中
新潟県 杉本陽香里さん(17)
夏野菜今しか出せない色がある僕には出せない茄子の紫
・・・2017.1.13、産経新聞 11:56更新 配信より