気性が合わず、文筆活動の妨げになる――。静岡県磐田市は13日、明治の文豪・森鴎外と、最初の妻、登志子との関係を記した3点の文書などが発見されたと発表した。これまで登志子の実家である赤松家側からは離婚の経緯を示す文書は見つかっておらず、専門家は「鴎外の心境を表す貴重な発見。飛び上がるほどうれしい」と胸を躍らせる。今回発見されたのは、〈1〉登志子の兄が父親に宛てた書簡の下書きとみられる文書〈2〉2人の披露宴の出席者の詳しい内容を記した文書〈3〉鴎外と登志子の長男・ 於菟 ( おと ) が書いた手紙――など。書簡の下書きとみられる文書は和紙6枚に毛筆で書かれており、登志子の兄、範一が海軍佐世保鎮守府長官だった父の則良に鴎外夫妻の近況を報告する内容だった。文書などは、則良の曽孫で磐田市に住む乙彦さん(68)が、今年6月に市に提供した資料の中から、鴎外研究者で元高校教諭の杉本完治さん(68)が発見、解読した。生まれたばかりの於菟について、鴎外は「別段牛乳にても無害」などと話し、於菟が森家に引き取られていく様子が描かれている。杉本さんは「於菟が森家に引き取られる様子が確認できる資料は初めてではないか」と指摘する。このほか、鴎外は登志子との別居について、「私の気性として、日頃夫婦で遊歩することもなく、談話も好まない。文筆活動の妨げになるので、登志子とよく相談した」という趣旨の発言をしている。今年は鴎外生誕150周年。杉本さんによると、これまで、登志子との離婚の経緯については、森、赤松両家と交友があった思想家、西周の日記などからしか、うかがうことが出来なかったという。 (2012年9月14日14時50分 読売新聞)
私のコメント : 今年は、森鴎外生誕150周年にあたる。日本国内だけでなく、ドイツ連邦共和国においても、森鴎外先生について、新たな資料や話題が発掘されていくことを島根県 津和野町 森鴎外記念館を創設するにあたり各方面機関に尽力し、明治期には、私の曾祖父、山口県萩より慶應義塾に学び、その際に、大分県出身の福沢諭吉先生と島根県津和野町出身 森鴎外先生との関係についても取り持った子孫として、慶應義塾大学 塾員としても、ドイツ連邦共和国の各関係機関には、強く望んでいる。
令和2年9月28日、島根県 津和野町に行き、神社仏閣を参拝し、古刹 ご住職と私は、昭和時代における 山口県 田中義一総理大臣、並び、当時の島根県出身 若槻礼次郎 総理大臣、大分県出身 井上準之助大蔵大臣、当時の政治 交流 外交における関係を説明して、その戦後における、石橋湛山元総理大臣、竹下登元総理大臣、竹下亘代議士、細田博之代議士 へと、現在、それが、つながる政治 学閥 地縁 内容 等 も説明を入れ、島根県 津和野町 在住 高僧からの 宗教 知識、宗教 教養 における その支援を私は、求めた。