青年君主、田中義首相を叱責、総辞職招く 「若気の至り」との後悔、後の失敗へ |
田中義一叱責事件として知られる、即位間もない青年君主の苦い経験を、昭和天皇実録はこう記述する。
■「若気の至り」
満州・奉天郊外で昭和3年6月4日に起きた張作霖爆殺事件で、田中首相は当初、関与が疑われた日本軍を厳罰処分する方針を奏上した。だが、事件をうやむやにしたい陸軍などの要求に流され、「犯人不明のまま責任者の行政処分のみを実施する旨」を奏上。それに天皇が激怒したのだ。田中首相は、5日後に内閣総辞職した。
内閣の決定に異を唱え、首相を辞任に追い込むような言動は、立憲君主としてあってはならないことだ。昭和天皇はのちに「私の若気の至りであった」と、率直に後悔している。
実録には書かれていないが、昭和天皇は激しく動揺したことだろう。以後、内大臣ら側近を除き、閣僚や軍上層部に強く意見を述べることが少なくなった。皮肉にもそれが、第二の失敗をもたらすことになる。
■大権干犯罰せず
昭和6年9月18日、満州事変が勃発。19日《(首相から)事態を現在以上には拡大せしめないよう努めるとの方針を決定した旨の奏上を受けられる》。21日《(参謀総長から)朝鮮軍隷下の混成第三十九旅団が朝鮮軍司令官の独断を以て国境を越え奉天に向け出動した(中略)旨の奏上を受けられる》。22日《(朝鮮軍の独断越境に対し)天皇は、この度はやむを得ざるも、今後気をつけるようにと戒められる》
朝鮮軍司令官が大命を受けずに独断で兵を動かしたのは、天皇大権の干犯(侵害)だ。この時こそ昭和天皇は大元帥として陸軍を強く叱責し、厳罰処分にすべきだった。
大命なき独断越境が契機となり、陸軍はますます暴走、昭和天皇の苦悩は深まっていく。
・・・ 平成26年9月17日 産経新聞 14:37 配信より
私のコメント: 昭和天皇は、苦悩される一方で、田中義一内閣の決定に異を唱え、首相を辞任に追い込むような言動、近現代史上における乃木希典、田中義一、田中龍夫、岸信介、佐藤栄作、安倍 晋太郎、若槻 禮次郞、竹下登 各業績も、分析していくことも必要であると感じる。