関ヶ原寝返りの経緯記す 吉川広家の古文書展示 |
徳川家康らの東軍と石田三成らの西軍が激突した関ヶ原の戦いでは、毛利輝元が西軍の総大将として大坂城に入城。これに対し、吉川広家は毛利氏の領土 安堵(あんど) と引き換えに参戦しないとした密約を家康と交わし、東軍を勝利に導いた。
古文書は「吉川広家自筆覚書案」。翌年の1601年に広家が輝元に宛てて書いたとされる。この中で広家は「日本中が二つに分かれて戦うのは無謀なこと」とし、当時の情勢について「有力大名はことごとく家康側に属している。万一、戦いに勝ったとしても、政治の実権は(石田三成ら)奉行衆に握られる」などと説明している。
同館の原田史子学芸員は「家康の軍事、政治力の強さに加え、経済的に苦しく、まとまりを欠く毛利家の内情など複数の要素を考え抜いた結果、広家は参戦しない道を選んだのではないか」と話している。
同展では、黒田官兵衛が広家に宛てた書状や、広家所用のかぶとや具足なども展示している。9月15日まで。水曜休館。問い合わせは同館(0827・41・1010)へ。
・・・ 2014年07月27日 読売新聞 より
私のコメント: 岩国市横山 吉川史料館 開催の「吉川氏の関ヶ原展」では、黒田官兵衛が広家に宛てた書状や、広家所用のかぶとや具足など 9月15日まで、展示もされていた。
平成26年11月8日(土)~12月7日(日)の間、下関長府博物館において、高杉晋作決起150年記念、「晋作決起 元治の対局」が開催されます。幕末における、岩国吉川家、長府藩・清末藩 等の果たした役割についても、岩国市横山 吉川史料館 原田史子学芸員 等 の配慮により、「晋作決起 元治の対局」の展示物から、皆様が、理解できる展覧会となっています。