100年先 見据え大学設立 良妻賢母ではなく「人・婦人・国民として」 |
NHKで放送中の「連続テレビ『あさが来た』」の主人公のモデル・広岡浅子( 1849年~1919年)は、明治時代を代表する実業家で女子教育に力を入れられたことでも知られる。彼女が影響を受けたのが、山口市出身の成瀬仁蔵(1858~1919)だ。当時の女子教育には、成瀬以外にも多くの山口県人が尽力した。
周防国吉敷村(現山口市吉敷)生まれの成瀬は郷校「憲章館」などで学び、同郷のキリスト教宣教師、澤山保羅(1852~1887)と再開し洗礼を受けた。澤山を手伝い、大阪に梅花女学校(現梅花女子大学)を開く。
1890年からの米国留学では多くの学校や社会施設などを視察。「女子の大学校設立と日本社会の改革が必要」との思いに至り、帰国後の1898年「女子教育」を出版した。ここで、成瀬は、女子を「良妻賢母」としてではなく、「人として」「婦人として」「国民として」教育する必要性を唱えた。
この書に感銘を受けたのが京都出身で実業家として活躍していた広岡だ。「女子に学問は不要」とされてきた時代を生きた広岡は、成瀬と政財界の有力者らを回って大学校設立に協力を求め、1901年、日本女子大学校(日本女子大学)が生まれた。
成瀬記念館(東京)学芸員の岸本美香子さんは「女子教育に携わるようになったのは澤山との出会いによるところが大きいが、明治政府や各界で影響力を持つ長州出身者がいたことも大きな助けになった」と話す。
成瀬が、大学校設立に向けて最初に相談したのは、同じ吉敷村出身で当時の大阪府知事、内海忠勝だ。明治維新の中心人物の一人で、初代首相の伊藤博文も協力したとされる。さらに、大学校の敷地内に建てられた実験などのための教室を備えた「香雪化学館」は、萩出身の実業家、藤田伝三郎の寄付によるものだった。
一方、吉敷村にはもう一人、女子教育に尽力した人物がいる。成瀬も学んだ憲章館創設者服部章三(1848~1916)だ。
服部もまた洗礼を受け、1879年、下関市に赤間関光塩英学校(後の光城女学院、現梅光学院大学)を開設した。梅光学院大学資料室の湯浅直美さんは「服部は教育家の家系に生まれ、自身も学校で英語を教えてきた。後輩の澤山が女子の学校を建てたことを知り、自分もと思ったのではないか」とみる。
約10年かけて、成瀬、澤山、服部の3人の伝記をまとめた山口市吉敷の平和生さん(87)は、「長州でも本流の出ではない3人は何か変えたいと女子教育に行き着いた。日本が外国から遅れないために女子の教育を高めなければと考えたと話す。「中でも成瀬は、日本に合う高等教育をと考えて女子の大学校を作り、100年先を見据えていた」
(寺尾佳恵) ・・・ 平成28年3月15日(火)、朝日新聞 山口地方版より
私のコメント: 日本女子大学 成瀬記念館 岸本美香子学芸員との間において、私は、学事交流がある立場でこの記事にコメントする。日本女子大学校の創設には、当時の皇室における各関係者、伊藤博文、大隈重信、井上馨、渋沢栄一、三井家の業績に負うことも大きい、当時の皇室 皇后陛下との学事関係においても成瀬仁蔵は、関係が深く、現在に至るも、続いている「その長州でも本流の出ではない」ということはありえない。日本女子大学の各関係機関や山口県下、その関係者に対しても、筆足らずの記事内容と感じる。








































