流鏑馬神事 五穀豊穣を願い一矢、見物客から歓声 津和野 /島根 |
天下太平や五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願う流鏑馬(やぶさめ)神事が10日、津和野町鷲原の鷲原八幡宮であった。「津和野流 流鏑馬保存会」のメンバーが、的を射抜く度に見物客から歓声が上がった。
鎌倉の鶴岡八幡宮を模して、室町時代末に造られたと伝わる馬場の全長は約270メートル。流鏑馬は明治以降途絶えていたが、地元有志が1976年に保存会をつくり復活させた。
鎌倉時代の狩衣(かりぎぬ)や江戸時代の略装を再現した衣装の射手(いて)たちが、騎乗で駆け抜けながら3カ所の的板を狙って矢を放った。【横井信洋】
ニュースサイトで読む: http://mainichi.jp/articles/20160412/ddl/k32/040/464000c#csidx61f48717c9028d88dbb3552d1084e0e Copyright 毎日新聞 ・・・ 2016年4月12日、毎日新聞 島根 地方版より
私のコメント : 祭政一致。五穀豊穣。豊穣の海。
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「山陰の小京都」の誕生秘話 津和野城(1)
島根県の最西端に位置する津和野は、秀峰・青野山と城山に囲まれ、赤茶色の石州瓦が葺かれた商家、武家屋敷、藩校などの歴史的建造物が点在する風情ある町だ。江戸時代には、津和野藩の城下町として繁栄した。現在もその面影を残し、「山陰の小京都」として年間100万人以上が訪れる人気の観光地となっている。
津和野城下を見下ろす、標高367メートルの霊亀山(れいきさん)に築かれたのが、津和野城だ。1282(弘安5)年、元(蒙古)に対する日本海沿岸再警備を目的として、鎌倉幕府の命により能登から吉見頼行が派遣されたという。吉見氏により、津和野城は30年がかりで一大山城として整えられた。
吉見氏が築いた城は、現在の姿とは異なる。尾根を堀切で断ち空堀で防御力を高めた、土木工事でつくられた中世の山城だ。一本松城と呼ばれ、後に三本松城と改称された。頼行の没後は2代頼直が築城を引き継ぎ、1324(正中元)年に完成したとみられている。
津和野城南端の中荒城が、頼行が1296(永仁3)年に築いたとされる前身の城だ。おそらくは三本松城の一部だったのだろう。中荒城と津和野城本丸との間には、南出丸、二重の堀切、三重の堀切、竪堀などがよく残っている。中荒城の南から西斜面に放射状に設けられた畝状竪堀(うねじょうたてぼり)は、中世山城ファンなら必見だ。
南北朝時代に入ると、吉見氏は周防(現在の山口県東南半分)・長門(山口県西半分)の守護職大内氏と主従関係を結び、戦乱の世を生き抜いていく。10代隆頼と11代正頼は大内氏から妻を娶(めと)り、大内氏との絆を深めている。津和野に京文化が色濃く残り「山陰の小京都」といわれるのも、京文化を好んで取り入れた大内氏の影響を受けているからだ。弥栄神社に伝わる古典芸能神事「鷺舞(さざまい)」も、もとは京都の八坂神社祇園会に伝えられたもの。京都から山口へ、山口から津和野へと伝えられた。
1551(天文20)年に大内義隆が陶晴賢に討たれると、吉見氏は毛利元就を頼った。陶晴賢の大軍に攻め込まれた壮絶な籠城戦を経て、毛利氏の重臣として活躍した。しかし毛利家臣であったため、1600(慶長5)年の関ケ原合戦後は津和野の拝領は叶わず萩に退転し、319年間14代続いた吉見氏は津和野を去ったのだった。
吉見氏の代わりに津和野城主となったのが、関ケ原合戦での功績を認められ徳川家康から3万石を受けた宇喜多秀家家臣の坂崎直盛だ。1601(慶長6)年10月に直盛が津和野に入ると、津和野藩が成立した。
現在の津和野城をつくったのが、この直盛だ。直盛は、中世の山城だった津和野城を大改修し、壮大な石垣を構築。兵器や戦術、社会情勢の変化に応じた、近世の城へと変貌させた。
翌年には、城下町づくりにも着手。検地を行い、城の大手(正面)も入れ替えた。西側の大手を東側に移すことで、武家の居住区や集落、市場などを集中させ城下町の繁栄を推進。自らの居館や役所は殿町に置き、家臣団を城山山麓へ住まわせ、町人町や商家町を配置した。観光スポットになっている碁盤の目のように水路や通りが張り巡らされた城下町は、こうして誕生したのだった。
(つづく。次回は10月17日に掲載予定です)
アクセス・問い合わせ
■津和野城
JR津和野駅より車で5分でリフト乗り場。リフト降車後、本丸まで徒歩20分。
0856・72・1771(津和野町観光協会)
文・写真 萩原さちこ
・・・ 2016年10月11日、朝日新聞デジタル 配信より