「信教の自由」の扉開いた流刑地の隠れキリシタン |
2018年04月15日 05時20分
明治維新150年の今年、新政府をめぐる再評価が盛んだ。しかし、神道国教化を掲げ、当初は他宗教を弾圧した新政府がその後、「信教の自由」容認へとカジを切った背景に、長崎のキリシタン農民による集団抵抗があったことはあまり知られていない。禁教を生き抜いたキリシタンの存在は、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙―サイレンス」(2017年)や、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録推薦などで関心を集めている。近代日本が経験した「心の自由」獲得への道のりで、彼らが担った歴史的役割も記憶しておきたい。
長崎のキリシタン153人、津和野に流刑
山陰の小京都として知られる島根県津和野町の町外れに、今は観光名所となっている乙女峠がある。1868年(明治元年)に長崎でキリシタン農民が大量検挙され、流刑に処せられた先の一つが津和野藩だった。乙女峠にあった古寺に計153人の農民が収容され、厳しい迫害により37人の老若男女が殉教した。
冬の終わりに雪の乙女峠に登った。 牢屋 ( ろうや ) として使われた古寺は既になく、公園として整備された敷地の隅に小さな「マリア聖堂」がたたずんでいた。聖母マリアと殉教者を記念して1951年に建てられた聖堂で、毎年5月3日には国内外から数千人の巡礼者が集まり、殉教者の堅信と遺徳をしのぶ「乙女峠まつり」が行われる。
ひっそりと静かで美しいこの山あいの地が、明治初期に信教の自由をめぐる壮絶な闘いの最前線となった歴史を振り返ってみよう。
近代国家の樹立をめざした明治新政府が、富国強兵を掲げる陰で、対応に苦慮した課題の一つが宗教だった。江戸幕府が1612年に 切支丹 ( きりしたん ) 禁令を掲げて以来、200年以上に及んだ鎖国時代はキリスト教排斥が続いた。王政復古と神道による思想統一をめざした明治新政府も当然のようにこれを継承し、明治元年、「切支丹宗門禁制」の高札を改めて掲げた。だが、これにより、「近代文明国」をめざしながら「信教の自由」を禁じるという国策上の矛盾を抱えることになった。はたして、この高札にすぐさま、英国、フランスなど西欧各国の外交団から「我々が信仰するキリスト教を邪宗というのか」と一斉に抗議が起き、外交問題化することになる。
問題が最も先鋭化した形で表れたのが、16世紀からキリシタンの町として発展し、禁教でも信仰を続けた隠れキリシタンの農民が多くいた長崎だった。長崎では幕末の1865年、外国人用にカトリック教会・大浦天主堂が建立されると、そうした農民のなかから「自分たちは先祖代々のキリシタンだ」と公然とカミングアウトする人が出てきて幕府を慌てさせた。その処分が決まらないまま明治維新となったことで、新政府は初年からこの問題への対処を迫られたのだった。
神道の国教化をめざす新政府にとって、キリシタンを容認する選択肢はありえなかった。結局、集団でカミングアウトした浦上村(現・長崎市)のほぼ全村民3394人を、津和野藩など20藩へ預託する流刑を1868年と70年に断行した。各地で拷問により死亡した殉教者は計662人に上った(月刊誌『カトリック生活』2014年5月号による)。
西欧の「野蛮国」批判で明治政府が信仰黙認
日本政府による大規模な信教弾圧と信徒迫害のニュースは、日本にいた外国人宣教師や外交官を通して海外に伝えられた。欧米では新聞などで「信教の自由を認めない野蛮国」などと批判され、強い対日非難がまき起こった。その頃、不平等条約改正のために各国を訪れた岩倉使節団は先々で厳しい批判を受け、ベルリンから新政府へ電報を送り、キリシタンを解放しないと諸外国との条約改正は望めないとの見方を伝えた。
政府はこれを受けて、ついに1873年(明治6年)2月、禁制高札の撤去を決める。キリスト教信仰を黙認する方針に転じ、流刑先のキリシタン農民は5年ぶりに長崎に戻れたのだった。
こうした史実は記録などで確認されているが、広く知られているとはいえない。
「キリシタン農民が隠れて守り続けた固い信仰が、明治政府の政策に一定の影響を与えて、『信教の自由』の容認へとカジを切らせた。その事実はもっと記憶されていい」。明治初期の政治と宗教政策に詳しい慶応大学の小川原正道教授はそう指摘する。
神道国教化に取り組んでいた新政府にとって、禁令の放棄は大きな方針転換だった。高札を撤去した当初は黙認しただけで、キリスト教も含めた各宗教の布教を認める正式な解禁に至ったのは26年後の1899年(明治32年)の内閣省令によってだった。
拷問エスカレートし、乙女峠の37人が殉教
小川原教授は言う。「これまで、外国の抗議で弾圧をやめたという見方が強調されてきたきらいがあるが、拷問を受けても(神道に)改心せず、やっと改心しても『改心戻し』をして、またキリスト教信仰に戻ってしまうキリシタン農民自体に、各藩が非常に手を焼いていた状況がわかってきた。農民たちの信仰があまりに固く、強制的な転向は無理だという考えが、政府内でも年を経るごとに強くなっていった」
「改心戻し」とは棄教を宣言した農民が、「やはりキリスト教に戻る」と言ってキリシタンに復帰することを指す。新政府が禁教政策断念に至った背景には、何より、農民たちの粘り強い「堅固な信仰」があったというのだ。こうしたキリシタン農民の5年に及ぶ集団抵抗が、西欧列強の外圧と呼応し、近代国家発展の重要な里程である「信教の自由」実現への起点となり、ついには制度化への扉を押し開いた意義は大きい。
ところで、キリシタン農民が流配された地の中でも、津和野の乙女峠が最も知られるようになったことには理由があった。
津和野藩は神道研究が盛んで、藩主の亀井 茲監 ( これみ ) や同藩出身の 福羽 ( ふくば ) 美静 ( びせい ) は明治政府が進めた復古的な宗教政策の中枢にいた。長崎で発覚したキリシタンの処分について、政府内で厳罰論や離島流配論が出るなか、亀井らは説諭で改宗させる穏便な案を主張した。無学な農民を神道に改宗させるのはたやすいとの自信からだったが、新政府は、こうした亀井らの意向を踏まえ、キリシタン農民のうち筋金入りの信徒を津和野に多数送り込むことを決めた。
津和野藩は当初、信徒たちをていねいに接遇し、説得で神道改宗を試みたが効果はなく、次第に水責め、雪責め、氷責め、狭い「三尺牢」への幽閉、食事の減量などへ拷問をエスカレートさせていった。日々の責め立てで改宗する者が50人以上いた一方、残る100人ほどは改宗を拒み通し、子どもや女性を含めた37人が殉教した。拷問や殉教の状況をリーダー格の守山甚三郎や高木仙右衛門が毎日1枚与えられるちり紙に、炭を使い書き留めていたことにより、正確な記録が残り、乙女峠の出来事は後世に伝わることになった。
長い間伏せられた流刑地での迫害実態
それにしても、「無学な農民」であるはずの浦上村のキリシタンがなぜ、驚くほど堅固な信仰を持っていたのか。役人から説得されても改宗しないどころか堂々と信仰を表明し、信教の自由を守り抜く強さをどうして持てたのか。
当時、カミングアウトしたキリシタンには、「妖術を使う不気味な人たち」との偏見があり、信仰も「先祖の 祟 ( たた ) りを恐れ、ただ因習を守った人たち」という見方があった。
しかし、近年の研究で、長い潜伏期間に独自の信仰形態に変容していったキリシタンの子孫の集団もある一方、16世紀にフランシスコ・ザビエルが伝えた頃からのキリスト教の教義や祈り、洗礼などの儀式、クリスマスなどの暦を忠実に組織として継承し、共同体の結束を維持した人たちがかなりいたことがわかっている。
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」(2014年)でキリスト教考証を担当した上智大学史学科の川村信三教授は、「個々人の信仰だけでなく、『慈悲の組』などと呼ばれた信徒の組織が営まれ、リーダーを中心に潜伏期にも共同体として信仰全般を維持していた。組織が草の根的に強かった」と説明する。そうしたグループは、聖書の教えにならい、病人の看護や亡くなった人の葬儀などで助け合う活動を展開した。「浄土真宗の『講』や寺中心の自治集落『寺内町』に性格が似ていた」と川村教授は言う。
浦上村は、熱心な信徒グループが多かった地域の一つで、乙女峠で村人から頼りにされた守山甚三郎や高木仙右衛門らはもともと共同体のリーダー格で、教義や暦にも通じていたようだ。
こうした史実は日本の近代化につながる重要な一コマのはずだが、これまであまり注目されてこなかったのはなぜなのだろうか。
「長崎に戻った人たちは、流配地での話はしないようにしていたようだ」と津和野カトリック教会の主任司祭、山根敏身神父は説明する。事実を掘り起こせば誰が棄教したかも明確になる。村に戻り、いったん棄教した人たちも教会に戻れるようにとりなしたキリシタンのリーダーたちは、過酷な経験をした仲間としての結束や村の復興を優先したようだ。
その結果、迫害の実態は長く伏せられた。著書『長崎の鐘』などで知られる永井隆・元長崎医科大学教授が1951年、生前の守山甚三郎から聞いた体験をつづり、翌52年に出版された『乙女峠―津和野の殉教者物語』が、初めての一般向けの書物と言われている。
隠れキリシタンの実態把握が難しく、歴史家から敬遠された事情もあったようだ。幕末・維新を描いた歴史小説『天皇の世紀』を朝日新聞で連載(1967~73年)した大佛次郎は、浦上村の大規模迫害や乙女峠の出来事について、異例の長尺を割いて詳述した。大佛は当時の日本で「これまで強く自己を守って生き抜いた人間を発見するのは困難」と記し、権利という意識のない時代で信仰を貫いたキリシタンを高く評価する一方、自分がこうして詳述するのは「進歩的な維新史家も意外にこの問題を取り上げない」からだと暗に批判していた。
「潜伏キリシタン関連遺産」の推薦書を再提出
明治初期には、1868年発布の「神仏分離令」を契機に、仏堂や仏像などを破壊する廃仏 毀釈 ( きしゃく ) も各地で行われた。排斥された仏教の側では、キリスト教排斥や神道思想布教のため政府が進めた民衆教化運動にあえて参加することで失地回復をめざす動きもあった。しかし、一方で、浄土真宗本願寺派の総本山・西本願寺の執行長で、岩倉使節団に同行して欧州を視察した経験を持つ 島地 ( しまじ ) 黙雷 ( もくらい ) は、「政教分離」「信教の自由」を強く主張し、民衆教化運動の拠点だった大教院の廃止を政府に働きかけた。長州出身で伊藤博文らとも親しかった島地の行動のかいもあって、政府はやむなく1875年(明治8年)、大教院を廃止。さらに宗教指導者向けに、天皇による政治を翼賛する目的とのことわりをつけて、「信教の自由保障の口達」を出した。
このように、「信教の自由」を実現する近代化の道のりは 平坦 ( へいたん ) でなく、仏教の側からの貢献も含めて 紆余 ( うよ ) 曲折があった。それでも、信仰を守り抜き、西欧列強の重大な関心も集めたキリシタン農民たちの非暴力抵抗と殉教が、その出発点で重要な役割を担ったことは間違いないだろう。
「思想信条の自由を命がけで守ることが、欧州でも民主主義の原点となった。禁教の下でキリシタンたちが示した生き方には、日本の民主主義の 萌芽 ( ほうが ) がある」。元上智大学学長、故ヨゼフ・ピタウ神父は生前、こう語っていた。
政府が2015年、世界文化遺産登録の国内候補として推薦書を提出した「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」は、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の諮問機関から「禁教・潜伏期」に焦点をあてるよう求められ、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として17年に推薦書が再提出された。登録の可否は今年中にも決まるとみられている。禁教時代を生き抜き、「心の自由」のため寡黙に闘ったキリシタンの存在に、世界の関心が向けられている。
プロフィル
榊原 智子( さかきばら・のりこ )
読売新聞調査研究本部主任研究員。専門分野は社会保障、少子化問題。政治部で中央省庁改革や厚生行政を担当後、解説部、生活情報部(現・生活部)、社会保障部で社会保障を現場と政策決定の両面から取材。自身の「育児不安」体験を経て、「安心して産み育てられる社会」の実現や「脱・少子化」の方策に関心を寄せている。 ・・・ 2018年04月15日 読売新聞 配信より
私のコメント : 2018年4月15日 山陰の小京都として知られる 島根県津和野町の町外れ、今は観光名所となっている 乙女峠がある。このたび、読売新聞 調査研究本部 榊原智子主任研究員から、以上の内容 配信があった。今まで、島根県津和野町にて、ローマ・カトリック教会 関係者、シスター、 カトリック教会 信者 等 と 私は、対談したことあるが、島根県 津和野町で 毎年、開催されている 「 乙女 峠 まつり 」において、私は、読売新聞 調査研究本部 榊原智子主任研究員と面談したり、また、津和野 信仰にもとづき、島根県 津和野町において、対談したこともない。
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TOCANA > 異次元 > 島根県「乙女峠」の聖母マリア出現事件
島根県「乙女峠」の聖母マリア出現事件!! 拷問に耐えた隠れキリシタンは、そのとき何を聞いたのか!?
2015.10.17
有史以来、聖母マリアの姿を目撃したという報告は多数寄せられている。よく知られているものとしては、フランスのルールドやポルトガルのファーティマ、ボスニア・ヘルツェゴビナのメジュゴリエでの目撃例などがあるが、アイルランドのトック、エジプトのカイロ、ニカラグアやルワンダなども有名である。
聖母マリアの出現に際しては、予言や警告が発せられ、重病人が治癒するなどの奇跡も伴うことが多い。また目撃例の中には、現地のキリスト教徒が危機に陥った際、まるで彼らを慰めるように聖母が姿を現したケースもある。そして日本でも、この種の出現事件が起きているのだ。
それは明治2年(1869年)、島根県津和野町にある「乙女峠」での出来事であった。なぜ島根県の津和野が聖母マリア出現の舞台となったのかを述べるには、そこから4年前の慶応元年(1865年)、長崎の大浦天主堂に“隠れキリシタン”たちが大挙して名乗り出た、いわゆる「信徒発見」から述べる必要があるだろう。
■概説:信徒発見 ― 現実になった「バスチャンの予言」
キリスト教は1549年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられた。しかし1587年、時の権力者である豊臣秀吉が「伴天連(バテレン)追放令」を発令。1597年には、スペイン人宣教師を含むキリスト教徒26人が長崎で磔刑にされるという事件も発生している。(ちなみに、この時の26人は後にローマ・カトリック教会によって聖人に認定されたが、磔にされた彼らの頭上に、謎の飛行物体が現れたとも言われている)そして、徳川家康も秀吉の禁令を引き継ぎ、1614年にキリスト教信仰を全面的に禁止した。その20年後の1637年には「島原の乱」が起こるが、これが鎮圧されると、表向きにはキリスト教徒は日本から消え去った。しかし日本各地には、“隠れキリシタン”として仏教徒を装いながらも、自らの信仰を維持する者たちが少なからずいたことはご存知のとおりである。そんな彼らの間には、日本のキリスト教徒の未来を予言した「バスチャンの予言」と呼ばれるものが密かに伝わっていた。そこには、「7代後に神父が黒船でやってきて、以後は信仰を告白できる」という内容もあったという。そして実際に「島原の乱」からほぼ7代を経た1853年、アメリカのペリーが黒船で浦賀に来航し、江戸幕府は鎖国政策を捨て開国を決めた。さらに1863年には、フランス人のヒューレ神父が長崎にやって来て、1865年に大浦天主堂が完成しているのだ。さて、それは大浦天主堂が完成してほぼ1カ月後の3月17日のことだった。当時大浦天主堂に常駐していたプティジャン神父が祈っていると、門の前に十数名の日本人の一団が集まってきた。神父が応対すると、4、50代くらいの婦人がこう言った。
「神父様、ここにおります者たちは、皆あなた様と同じ心でございます」
それからこの婦人は神父に尋ねた。
「聖母マリア様の御像はどちらにありますか」
神父が祭壇右にある聖母マリア像へと案内すると、一同は口々にこう言って像の前でひざまずいた。
「本当に聖母マリア様だ! 見てごらん、御子イエス様を腕に抱いておられる」
この出来事は、日本におけるキリスト教史の観点から「信徒発見」と呼ばれることとなった。「島原の乱」以来200年以上の間、キリスト教徒たちが禁令の中で密かに信仰を保ってきたという、世界的にも例のない事件である。
■乙女峠の聖母マリア出現事件
しかしこの時、連綿と続いてきたキリスト教禁令はまだ解かれたわけではなかった。「信徒発見」直後に明治維新が訪れたが、「浦上四番崩れ」と呼ばれる迫害が本格化したのは、じつは明治になってからのことだった。当初の新政府は、天皇中心の国家体制を築くためキリスト教信仰を引き続き禁止したのだ。こうして長崎で名乗り出たキリスト教徒たち3,400人は囚えられ、萩、津和野、福山、名古屋など20箇所に流罪となる。明治4年(1871年)の廃藩置県はこの2年後のことあり、こうしたキリスト教徒の扱いは、当時まだ存続していた各藩の判断に任されていた。28人が送られた津和野藩は当初、神道による教化で改宗させようと試みたが、彼らの信仰は固く、効果がないとわかると苛烈な拷問が始まった。雪深い冬の津和野で、氷の張った水に投げ込んだり、縛ったまま殴りつけたり、さらには「三尺牢」と呼ばれる身動きすらままならない三尺四方の檻の中に閉じ込め、裸のまま何日も外気に晒すなどの激しい拷問が行われ、耐えかねて棄教する者も現れた。その一方、改宗を拒んで殉教していった者の中には、3歳や4歳といった年端もいかぬ子どもまで含まれていたという。こうしたキリシタンの中に、安太郎という信徒がいた。親切で優しい人柄の安太郎は、模範的な信者であった。ほかの信者からも尊敬されていたから、津和野藩の役人は、この男が信仰を捨てれば皆が追随すると考え、彼を「三尺牢」に閉じ込め、裸のまま真冬の乙女峠に捨て置いた。安太郎は明治2年1月10日から、「三尺牢」に閉じ込められたという。戸外で何日も過ごす安太郎の身を案じた仲間たちは、小さな硬貨をナイフのように用いてやっとの思いで床に穴を開け、17日の夜、密かに彼の様子を見に行った。すると、一週間牢に閉じ込められている安太郎は、逆に仲間を勇気づけるようにこう言い放つのだ。「私は少しも寂しくありません。毎夜、九つ時(深夜0時)から夜明けまで、きれいな聖マリア様のようなご婦人が現れてくださいます。とてもよい話をして慰めてくださるのです」信徒たちは、この女性は聖母マリアに違いないと信じた。しかし安太郎は、仲間にこの話をした直後の22日、ついに力尽きて天に召された。聖母マリアが安太郎にどのような話をしたのか、具体的な内容は伝わっていないようだ。現在、島根県津和野町の乙女峠には、聖母マリア出現を記念する聖堂や、「三尺牢」に入った安太郎と聖母の像なども建てられている。しかし世界的に見ると、日本での聖母関連事件としては、秋田に伝わる「涙を流す聖母像」の方が有名らしい。有名な聖母出現地と異なり大規模な施設はないが、乙女峠は津和野駅からそう遠くない、渓流の近くにある。それがかえって、聖母マリアの慈しみを感じさせる風情にもつながっている。山陰の小京都と呼ばれる津和野町内の観光も兼ねて、読者の皆さんもいつか訪ねてみてはいかがだろう。
羽仁礼(はに・れい)
一般社団法人潜在科学研究所主任研究員、ASIOS創設会員
・・・2015.10.17、TOCANA 配信より