池上線と池上本門寺の深い関係 全国から30万人以上が集まる「お会式」とは |
連載「あなたの知らない神社仏閣の世界」
2018.10.13 07:00dot.#神社仏閣、朝日新聞出版コンテンツ 配信より
旧暦の10月13日は、日蓮宗の開祖である日蓮が没した日である(新暦では11月21日)。日蓮は鎌倉時代に安房国(現在の千葉県南部)に生まれ、天台宗に学び日蓮宗を起こした高僧だ。日蓮宗は日蓮の没後、さまざまな宗・流派が誕生し、教義についてまとめるのはかなり難しいのでここでは割愛するが、日蓮の命日に行われてきた「お会式(えしき)」は、全国的にも歴史的にもよく知られる一大行事として上げてもよいのではないかと思う。
【錦絵に画かれた本門寺お会式や、関東で一番古い五重塔などの写真はこちら】
●日蓮が没した場所に建立されたお寺
日蓮は60年の生涯を、東京大田区の池上本門寺の地で閉じた。日蓮が開いた山梨県の身延山久遠寺から、病気治癒のために湯治に向かう途中、宿をとった池上宗仲邸で倒れ、そのまま没したのである。久遠寺を発ってからわずか1月あまりのことであった。この屋敷跡に建つのが、本門寺の本坊・本行寺で屋敷裏の敷地に日蓮の供養として本門寺が建立されるのである。
●「お会式」は日蓮忌を指す言葉に
「会式」とは、仏事の供養全般を指す言葉であるが、時代が下るとともに次第に「お会式」と言えば、日蓮宗にとっての日蓮の法会、10月13日を中心とした法要行事を表すようになっていく。これは、日蓮宗、特に池上本門寺で行われる法要が盛大であったためであろう。江戸時代の錦絵にも、広重・豊国の手によりその様子が描かれている。手には日蓮宗特有の団扇太鼓が握られているのが見て取れる。実際、俳句では秋の季語として「お会式(あるいは御命講)」が使われていて、かの芭蕉も"御命講"での句を詠んでいる。
●参詣者のための鉄道敷設
日蓮入滅の際、庭の桜が季節外れの花を咲かせたという言い伝えからお会式桜を模した万灯(まんどう)を掲げ、約3千人もの人たちが練り歩く万灯練行列は、命日の前日12日に行われ、これに江戸火消しのまといなどが加わり大変華やかである。現在でも、本門寺の「お会式」には全国から30万人以上の人々が集まっている。
この人気を象徴するのが、東急電鉄の池上線だ。もともと池上電気鉄道という会社が、池上本門寺への参詣者輸送のために、免許申請が行ったのが1912(明治45)年、さまざまな問題が山積していたため実際の開業は1922(大正11)年となるが、これもお会式直前に間に合わせるかのように営業が始まっている。のちに東急電鉄によって合併され、今でもお会式には臨時列車が走っている。
●池上の大堂は清正寄進
江戸時代になり、徳川家をはじめ加藤清正、前田利家などの大名からの寄進を受け大伽藍(がらん)を持つようになった。有名な江戸っ子たちの口上に「池上(本門寺)の大堂、上野(寛永寺)の中堂、芝(増上寺)の小堂」というものがある。大戦中の戦火でほとんどを焼き尽くされたが、加藤清正が寄進したというその大堂(祖師堂)は、清正が兜(かぶと)をかぶったままでも縁の下を通ることができたほどだったとか。また墓所には奥絵師・狩野探幽をはじめとした狩野家、市川雷蔵、初代松本白鸚など著名人が多く眠る。中でも力道山のお墓は、格闘技ファンにとっては聖地としても知られている。
●官軍が逗留した本陣
奥庭にあたる「松涛園」は小堀遠州作の名庭で、西郷隆盛と勝海舟による江戸城無血開城の会見場所とも言われている。これは、官軍が、本門寺を本陣として逗留していたため、会談の申し入れが行われたものだと考えられているようだ。のちに会談の行われた薩摩藩蔵屋敷跡には、「江戸開城西郷南洲 勝海舟會見之地」碑が建てられているが、松涛園の庭園内にも会見の碑が建っている。本門寺の墓所入り口付近に立つ五重塔は、関東に残るもののうち一番古いものだ。これは徳川2代将軍・秀忠の乳母が、秀忠15歳の折、疱瘡からの平癒のお礼に建立したものである。ほとんどの堂宇を戦火で焼かれた本門寺において、この貴重な塔と、日蓮の荼毘(だび)所と伝わる場所に立つ多宝塔が残ったのは、魔除けの「赤色」が効いたのだろうか。広い境内を歩きながらふとそんなことを思ってしまった。
私のコメント : 平成30年10月13日、旧暦の10月13日は、日蓮宗の開祖である日蓮が没した日である(新暦では11月21日)。日蓮は鎌倉時代に安房国(現在の千葉県南部)に生まれ、天台宗に学び日蓮宗を起こした高僧だ。「会式」とは、仏事の供養全般を指す言葉であるが、時代が下るとともに次第に「お会式」と言えば、日蓮宗にとっての日蓮の法会、10月13日を中心とした法要行事を表すようになっていく。
日蓮は60年の生涯を、東京大田区の池上本門寺の地で閉じた。
池上本門寺奥庭にある「松涛園」は小堀遠州作の名庭で、西郷隆盛と勝海舟による江戸城無血開城の会見場所と言われている。


































