小学生、浜口梧陵を語り継ぐ「地元の偉人、誇りに思う」 1年間の学習成果発表 和歌山 |
2/3(日) 7:55配信 、最終更新:2/3(日) 7:55 産経新聞 配信より
安政南海地震(1854年)の際に稲束に火を付けて人々を高台に避難させたとする「稲むらの火」の逸話で有名な広川町出身の実業家、浜口梧陵について、地元の語り部サークルから1年間学んできた小学生たちが2日、稲むらの火の館(広川町広)で初めての発表会に臨み、学習の成果を披露した。
2020年に梧陵の生誕200年を迎えることを機に、地元の子供たちに梧陵の功績を伝えようと、昨年4月から語り部サークルと町教委が始めた取り組み。町内の小学5、6年生を対象に募った「町梧陵語り部ジュニアクラブ」に今年度は児童10人が参加し、休日や夏休みなどを利用して梧陵に関する講義を受けたほか、梧陵が巨額の私財を投じて築いた「広村堤防」(国史跡)を訪れるなどして学んできた。
この日、児童らは「津波防災」「広村堤防」「梧陵の生涯」の3つのテーマで学習の成果を発表。梧陵の防災に懸ける思いなどを紹介し、世を治め、民衆を救う「経世済民」の思想を重視した梧陵について「思いやりのある優しさ、純粋な心の持ち主。日本の中でも優れた偉人の一人で、私たちは梧陵さんを誇りに思う」と強調した。
発表の後、1年間の努力をたたえ、児童には「語り部ジュニア」としての認定証が手渡された。町立南広小6年の竹中夢唯(ゆい)さん(12)は「この発表で1年間の努力を出せてうれしい。梧陵さんがとてもすごい人で自慢できる人であることを全国や世界の人にも深く知ってもらいたい」。指導した語り部の熊野享さん(69)は「最初は心配していたが子供たちは本当に成長した。この1年間の勉強を通じて、広川町で育ったことを誇りに思って巣立っていってほしい」と話した。
ジュニアクラブのメンバーは来年度にも募集される予定。
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私のコメント : 平成31年2月3日、安政南海地震(1854年)の際に稲束に火を付けて人々を高台に避難させたとする「稲むらの火」の逸話で有名な広川町出身の実業家、浜口梧陵について、地元の語り部サークルから1年間学んできた小学生たちが2日、稲むらの火の館(広川町広)で初めての発表会に臨み、学習の成果を披露した。2020年に梧陵の生誕200年を迎えることを機に、昨年4月から語り部サークルと町教委が始めた。
幕末、銚子で開業していた蘭学医・三宅艮斎と交流を持ち、西洋に興味のあった梧陵は、1852年(嘉永5年)、広村に「稽古場」を開設しました。西洋文明の長を探り、青少年の人材の育成に務めたこの稽古場は、耐久社、耐久学舎、耐久中学と名を変え、今日では和歌山県立耐久高校として、長い歴史を誇っています。
また、1858年(安政5年)、江戸(神田お玉ヶ池)にある種痘所の再建。また、濱口梧陵傳によると、図書及び機械類の購入費のため更に400両を寄付し、その種痘所は、のちに西洋医学所と称し江戸唯一の西洋医学研究所となりました。(現在の東京大学医学部の基礎となる。)浜口梧陵は、人材育成や学問の発展、社会貢献のため労を惜しまない人だった。
1864年(元治元年)、ヤマサ醤油が幕府より優れた醤油として認められ、最上醤油の称号を得たのも梧陵の時代です。和歌山藩の勘定奉行や和歌山県初代の県会議長を経て、中央政府にも召されて初代駅逓頭(以前の郵政大臣に相当)になり、近代的な郵便制度の創設にあたりました。また、佐久間象山、勝海舟、福沢諭吉など多くの知識人と広い交流を持ち、勝海舟は梧陵の死後に、その顕彰碑に文をささげています。銚子で開業していた 蘭学医・三宅艮斎、ヤマサ醤油、浜口梧陵は、当家とも、当時より、その関係が深いものがある。