欧州随一の親日国、ポーランドで語り継がれる日本の孤児救出劇 |
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記事 NEWSポストセブン 2019年02月08日 07:00 配信より
ヨーロッパ随一の親日国といって過言ではないポーランド。両国の絆はソ連の共産主義の前にも揺らぐことがなかった。ジャーナリスト・井上和彦氏がレポートする。
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バラの花が咲き乱れたワジェンキ公園には、ポーランドが生んだ偉大な作曲家フレデリック・ショパンの銅像が建ち、横にはピアノが置かれていた。これからピアニストによる野外演奏が始まるのだ。しばらくすると人々が公園に集まりだし、ショパンの流麗な楽曲が流れると、人々はその演奏に聴き入った。
ポーランド人から愛され続けるショパンその楽曲の中でも「革命」はポーランドの悲哀の歴史を物語っている。この曲が生まれたのは、ポーランドがロシアからの独立を勝ち取るため武装蜂起した最中の1831年のことだった。
ヨーロッパの中央に位置し、ロシアとドイツという大国に挟まれたポーランドは、隣接する大国に国土を分断され、あるいは戦場となって蹂躙されてきた。第二次世界大戦後は、意に反して共産主義独裁国家ソ連の陣営に否応なく組み込まれ、約半世紀にわたり共産主義の弾圧に苦しんだ。
そんなポーランドは、ヨーロッパ一の親日国家であることをご存じだろうか。その理由の一つが、第一次世界大戦(1914~1918年)末期の「シベリア出兵」時のある出来事にある。
当時、ロシア革命に干渉すべく、日本、米国、英国、フランスらの連合国がシベリアに出兵した。日本は、兵力7万3000人と戦費10億円を投じ、約3000人もの戦死者を出した。だがその結果として、日本がシベリアで孤立した765人のポーランド人孤児を救うことができたのである。
◆君が代を歌った孤児たち
ではなぜシベリアにポーランド人が? 19世紀、ロシア帝国の支配下にあったポーランドで独立を勝ち取るための、民衆蜂起が始まった。
1830年の11月蜂起、そして1863年の1月蜂起でポーランド人が立ち上がった。だが、圧倒的軍事力を誇るロシア軍に制圧され、その結果多くのポーランド人が政治犯としてシベリアに送られたのだった。
さらにその後の第一次世界大戦では、国土がロシア軍とドイツ軍の激しい戦場となったため逃れてきた人々が加わり、当時シベリアには15万~20万人のポーランド人がいたという。
戦後、ポーランドは独立を回復したが、大戦末期に起こったロシア革命によって祖国への帰国は困難となった。シベリアのポーランド人は、ロシア内戦の中で凄惨な生き地獄を味わわされ、多数の餓死者や病死者、凍死者を出したのだった。
こうした惨状を知った極東ウラジオストク在住のポーランド人、アンナ・ビエルケビッチ女史らが「ポーランド救済委員会」を1919年に立ち上げ、「せめて親を失った孤児だけでも救わねば」と東奔西走した。当初は米国の赤十字が動くはずだったが、肝心の米軍が撤退となってはどうしようもなかった。
そこで1920年6月、ポーランド救済委員会は地理的にシベリアに近く、また軍を派遣していた日本に救援を打診した。すると日本の外務省が日本赤十字社に救済事業を要請し、日本赤十字は、陸軍大臣の田中義一と海軍大臣の加藤友三郎に合意を得て救護活動を決定した。早くもその2週間後、ポーランド孤児らを乗せた輸送船がウラジオストクを出発し、福井県・敦賀港に到着したのだった。
このとき、日本赤十字をはじめ、軍や警察、役場、敦賀市民は、孤児たちを温かく迎え入れた。食事や菓子でもてなし、病気の治療にあたるなど、手厚く養護したのである。
こうして1922年8月までに救出されたポーランド孤児は765人を数えた。ポーランド政府の要請で、元気を取り戻した孤児たちは横浜港や神戸港から祖国へ帰還していった(*1)。
【*1:初期に日本に来たポーランド孤児は渡米し、米国在住のポーランド人たちに引き取られた。】
ところが、船で日本を離れるとき、感動的な出来事がおきた。ポーランド孤児たちは「日本を離れたくない」と泣き出したのである。
シベリアで極寒・極貧の生活を強いられてきた孤児たちにとって、日本はまさに天国だったのだ。孤児らは船上から「アリガトウ」を連呼し、「君が代」とポーランド国歌を高らかに歌い感謝の意を表して別れを惜しんだという。
◆阪神淡路大震災で恩返し »
私のコメント : 令和元年6月29日、ヨーロッパ随一の親日国といって過言ではないポーランド。両国の絆はソ連の共産主義の前にも揺らぐことがなかった。初期に日本に来たポーランド孤児は渡米し、米国在住のポーランド人たちに引き取られた。シベリアで極寒・極貧の生活を強いられてきた孤児たちにとって、日本はまさに天国だったのだ。孤児らは船上から「アリガトウ」を連呼し、「君が代」とポーランド国歌を高らかに歌い感謝の意を表して別れを惜しんだという。
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クラシックカメラ話「WZFO ALFA」
2014.05.16【Vol.167】 種清豊のフォトコラム 配信より
ポーランドのWarszawskie Zak ady Fotooptyczneワルシャワ写真光学製造所が1960年代初頭(1962年ごろ)に発売したALFAというカメラのご紹介です。1970年代(WZFOは1952年~1968年)までカメラを生産していたこの企業には、有名な製品として、二眼レフのSTARTやカラー引き伸ばしレンズのJANPOL COLOR 55mm,80mm 1:5.6などが知られています。
このALFAは縦型でカーブを基調にしたユニークなフォルムと鮮やかなカラーで、一見トイカメラのように見えるのですが、鉄やアルミ板などの金属を素材にした立派な35mmレンズシャッターカメラです。紺、エンジ、ベージュ、スカイブルーなどカメラに使われることの少ないカラーリングは非常におしゃれです。初代ALFAとALFA2の2種類があるのですが、両者の明確な違いは搭載されるレンズで区別できます。
ALFAがEuktar 45 mm f/4.5 ALFA2がEmitar 45 mmx f/4.5になります。いずれも3群3枚構成のレンズです。それとケーブルレリーズ取り付け部に違いを見ることができます。ファインダーにパララックス補正用の印が取り付けられるのはALFA2になってからということですが、補正用の印が付いていないALFA2も存在するため細かな仕様違いが混在していたようです。シャッターはB、1/30 1/60 1/125の4速、2枚羽根のリーフシャッターを搭載しています。大きな特徴として挙げられる、フィルム巻き戻し機構がないダブルマガジン方式を採用しているのは、設計上の都合なのか、フィルムや現像に関する要因なのか謎の部分です。
実際にALFAがどの程度生産されたかはわかりませんが、プラスチックを多用しない金属製のカメラであり、またWZFOの資金難の時代のカメラであることから生産数は多くないのかもしれません。また、立派な革ケースがあるのですが、ケースに入れられたまま放置されて、きれいなはずのカラーリングがサビによってダメージを受けている固体も多く見受けられます。完璧な状態のALFAを見つけるのは困難ですが、一体いくつのカラーバリエーションがあったのかをこの目でちゃんと確かめて見たいものです。
私のコメント : 令和元年6月29日、ポーランド の Warszawskie Zak ady Fotooptyczne ワルシャワ写真光学製造所 が 1960年代初頭(1962年ごろ)に発売したALFAというカメラ。1970年代(WZFOは1952年~1968年)までカメラを生産していたこの企業には、有名な製品として、二眼レフのSTARTやANPOL COLOR 55mm,80mm 1:5.6などが知られています。
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【知ってる?!】ポーランド国交100年(3)ポンチキは日本人にも好かれる味
2019.6.19 12:30ライフくらし 産経新聞 配信より
ポーランド国民の約9割はカトリック教徒。伝統的な行事、イースター(復活祭)の昼食にはジュレック(酸味の効いたスープ)を食べる。クリスマスイブの夕食には、キリスト教の12使徒にちなんで、ボルシチなど12品の料理を家族そろって食べる習慣がある。街角には「ミルクバー」と呼ばれる大衆食堂が多く存在する。メイン料理、スープ、付け合わせなど、たくさんの種類の中から好みの組み合わせをその場で選び注文する。価格も庶民的で老若男女問わず人気だ。近年ではワルシャワを中心にすしやラーメンなど、日本料理店も増えてきたという。一方、日本国内でポーランド料理はなかなか味わえない。東京都調布市のカフェ「ポンチキヤ」は都内で唯一のポーランド料理専門店。人気のピエロギは水餃子を思わせる見た目で、食感もそっくり。生地に包まれる具は主食のジャガイモ、チーズ、肉などだ。店名の由来となったポンチキはポーランドの伝統的なドーナツで同店の看板商品。大人から子供まで親しまれている定番おやつで、店主の坂元萌衣子(めいこ)さんは「日本人にも好かれる味です」と話している。(取材協力 ポーランド 広報文化センター)
私のコメント : 令和元年6月29日、日本国内でポーランド料理はなかなか味わえない。東京都調布市のカフェ「ポンチキヤ」は都内で唯一のポーランド料理専門店。ポーランド国民は、伝統的な行事、イースター(復活祭)の昼食にはジュレック(酸味の効いたスープ)を食べる。クリスマスイブに、ボルシチなど12品の料理を家族そろって食べる習慣がある。
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中目黒スローテーブルで「ポーランドフェア」 国交樹立100周年で
2019.05.20、目黒経済新聞 配信より
中目黒・駒沢通り沿いにあるカフェ&ビストロ「中目黒SLOW TABLE(スローテーブル)」(目黒区上目黒2)で5月22日まで、「ポーランドフェア~おいしいポーランドと出会い~」が開催されている。
ポーランドフェア展示品「ポーリッシュポタリー」
日本とポーランドは今年、国交樹立100周年を迎えた。これを記念して、ポーランド広報文化センター(三田)、目黒区国際交流協会(上目黒)主催で行われている。期間中、ポーランド料理を提供している。ディナータイムは「肉のピエロギ」(700円)、「じゃがいものパンケーキ」(900円)、「ズラヅィ ヴィオヴォッヴェ」(1,600円)、「リコッタチーズのムース ポーランドの特選ハチミツをたっぷりかけて」(600円)などで、駐日ポーランド共和国大使館が監修した。ランチタイムは「ラツーシュキプレート」(1,250円)、「肉のピエロギプレート」(1,100円)を提供。ディナータイムに提供する料理のみ、フェア終了後の6月16日まで注文できる。店内にはポーランドの職人が一点一点描いた陶器を展示。愛らしい絵柄とフォルムからヨーロッパでは「ポーリッシュポタリー」と呼ばれているものだ。その他、工芸品や民族衣装も展示している。同店を経営するファンタジスタ・ジャパンの長尾研一社長は「文化交流と地域交流の場として協力できるのはとてもうれしい。料理も大使館監修によるもので、ポーランドで調理されているそのままのレシピを再現している。ぜひ、楽しんでほしい」と話す。営業時間は、ランチ=11時~17時、ディナー=17時30分~23時。
私のコメント : 令和元年6月29日、日本とポーランドは今年、国交樹立100周年を迎えた。東京都 中目黒・駒沢通り沿いにあるカフェ&ビストロ「中目黒SLOW TABLE(スローテーブル)」(目黒区上目黒2)で5月22日まで、「ポーランドフェア~おいしいポーランドと出会い~」が開催されている。期間中、ポーランド料理を提供している。ディナータイムは「肉のピエロギ」(700円)、「じゃがいものパンケーキ」(900円)、「ズラヅィ ヴィオヴォッヴェ」(1,600円)、「リコッタチーズのムース ポーランドの特選ハチミツをたっぷりかけて」(600円)などで、駐日ポーランド共和国大使館が監修した。ランチタイムは「ラツーシュキプレート」(1,250円)、「肉のピエロギプレート」(1,100円)を提供。ディナータイムに提供する料理のみ、フェア終了後の6月16日まで、その注文ができた。
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秋篠宮ご夫妻、ポーランド訪問
6/29(土) 7:22配信 最終更新:6/29(土) 13:22 TBS系(JNN) 配信より
ポーランドを訪問中の秋篠宮ご夫妻が、大統領主催の昼食会に出席されました。「皇嗣という新たな立場でポーランドを訪問されている秋篠宮さま。新時代の国際親善が本格化します」(記者)現地時間28日午前、大統領官邸で歓迎式典が行われ、秋篠宮ご夫妻はドゥダ大統領夫妻に出迎えられると笑顔で握手を交わされました。その後、昼食会が開かれ、秋篠宮さまが挨拶されました。「両国関係の発展に深く関わりをもつ施設を訪問するとともに両国間のさまざまな学術交流について見聞を深めることを楽しみにいたしております。乾杯」また、秋篠宮さまは「国交樹立100周年を契機として、日本とポーランド共和国の友好親善関係が一層進展することを願います」と話されました。(28日23:18)
最終更新:6/29(土) 13:22
TBS系(JNN)
私のコメント : 令和元年6月29日フランス南部ガラルグルモンテュで6月28日、気温が国内観測史上最高の45.9度を記録した。ポーランドを訪問中の秋篠宮ご夫妻が、大統領主催の昼食会に出席された。現地時間6月28日午前、大統領官邸で歓迎式典が行われ、秋篠宮ご夫妻はドゥダ大統領夫妻に出迎えられると笑顔で握手を交わされました。秋篠宮さまは「両国関係の発展に深く関わりをもつ施設を訪問するとともに両国間のさまざまな学術交流について見聞を深めることを楽しみにいたしております。」、「国交樹立100周年を契機として、日本とポーランド共和国の友好親善関係が一層進展することを願います」と話された。