松本潤主演ドラマ『永遠のニシパ』6・7北海道先行、7・15全国放送 |
2019-03-25 16:27、© oricon ME inc.配信より
嵐の松本潤が主演するNHKの北海道150年記念ドラマ『永遠のニシパ~北海道と名付けた男 松浦武四郎~』の放送日が決まった。北海道先行で6月7日(後7:30~8:55 総合)、全国放送は7月15日(後7:30~8:53)。また、初代開拓使長官 鍋島直正役で小日向文世、新政府参与 大久保利通役で江口洋介の出演も発表された。 松本が演じるのは、幕末に蝦夷地を調査し、北海道という名前を考案した探検家・松浦武四郎。幕末、ペリーの黒船来航以来、江戸幕府はロシアの国境画定要求など、海外列強から開国を迫られる未曾有の危機にあった。武四郎は、蝦夷地をロシアから守らなければならないと決意して調査する。そこでアイヌ文化の豊かさ知り、アイヌの人々のやさしさに共感を抱くようになっていく。 松本のほかに、アイヌの女性リセ役の深田恭子、リセの義父でアイヌの長老エカシ役の宇梶剛士。新たに発表された小日向、江口。アイヌの人々であるリセの兄・ウテルク役に木村彰吾、リセの息子・市助役にヴァサイェガ渉と正垣湊都、リセの義母フチ役に曽川留三子、案内人イワンハルカ役に納谷真大。 江戸にいる、第二代開拓使長官・東久世通禧役に山田良明、旧幕府外国奉行・堀井出雲守役に石井正則、旧幕府老中・阿部伊勢守正弘役に筧利夫。松前にいる、松前藩家老・佐島勘解由(かげゆ)役に西村まさ彦、商人・新堂佐七郎役に石倉三郎、商人・湊屋彦兵衛役に斎藤歩、新堂屋手代・六之助役に有薗芳記らが出演する。
■公式サイト(3月25日午後5時オープン)
http://www.nhk.or.jp/sapporo/nispa/
私のコメント : 令和元年8月18日、保育政治、維新150年!! 輝け花と共に・・、花燃ゆ、主演 井上真央、津和野町、萩市、山口市、周南市、山口県 交通政策課、益田市、デジカメ 編集。その後における 説明について、・・・
京都 八月十八日の政変、維新150年!! 輝け花と共に・・、花燃ゆ 主演 井上真央 NHK 大河ドラマ 放映後における 七卿落ち 沢宜嘉卿の御用係を勤めていた当家 対応 等も、私のもとには、現在あり、よって、令和元年を迎えて、令和元年8月18日、山口市 錦小路頼徳卿の墓所を参拝し、「維新150年!! 輝け花と共に・・」、花燃ゆ その後の報告を墓前におこない。神社 等 からの稜威もいただいた。
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第12回 七卿落ち~文久3年10月
朝廷権力の比重増大と長州藩を主とした尊譲派の台頭により、文久3年前半期は尊譲運動も最高潮に達していました。
8月13日、天皇が大和の神武天皇陵や春日神社に参拝し、そこで攘夷の軍議を開き、攘夷の徹底を期しようとする攘夷親征が尊譲激派から主張され、朝廷は勅詔を下しました。
この親征の詔に激高した薩摩・会津両藩を中心とした公武合体派は、中川宮を擁立して尊譲激派一掃計画を立て、8月18日に実行します。
これによって尊譲運動の中心であった長州藩及びそれに同調していた公家は一挙に京都から追放されたのです。世に言う「八月十八日の政変」です。
朝廷の主導権はこれ以後公武合体派に移り、三条実美*・三条西季知*・東久世通禧*・壬生基修*・四条隆謌*・錦小路頼徳*・沢宜嘉*の七卿と長州藩兵以下千余人は、19日の明け方、洛東の妙法院から三田尻港(現山口県防府市)を目指して下りました。これがいわゆる「七卿落ち」です。
8月13日
【京都】
孝明天皇が春日神社等に参拝しました。
この日、「攘夷親征の詔勅」が発せられました。
そして、会津と薩摩の同盟が成立し、長州藩排除に動きます。
8月16日
【京都】
福岡藩士平野国臣、学習院出仕に任命されました。
8月17日
【奈良】
中山忠光・吉村寅太郎ら天誅組が大和五條で挙兵しました(天誅組の変)。
天誅組が挙兵したことをまだ知らない三条実美、天誅組を止めるため京都より平野国臣を遣わします。
8月18日
【京都】
長州藩や攘夷派公家が禁裏より強制的に排除されました。七卿や長州藩士らはとりあえず鷹司邸に集り、そのあと洛東妙法院に集結し、善後策について話し合いました。
協議の結果、一旦長州へ戻ることを決しました。
8月19日
【京都】
七卿らは京都を出て、摂津国芥川に旅宿しました。清末藩主毛利元純・岩国藩吉川経幹も従い、総勢二千人以上の一行です。七卿は慣れぬわらじで歩いたため、途中から三条と三條西は駕籠に乗りました。
8月20日
長州藩家老根来上総*は京都から山口へ帰り、13日に下された大和行幸の詔と藩主父子上京の命について報せました。
これを受けて長府・徳山藩主及び重臣らを交えた会議が開かれ、22日に世子(毛利元徳*)の上洛を決します。
この時点では、政変の報せは山口へ届いていませんでした。
【兵庫】
七卿らはこの日、摂津国西宮の本陣に宿泊しました。
8月21日
【兵庫】
七卿らは早暁出発し、兵庫港に着き、楠正成の墓に参りました。
その後、灯の頃に乗船。一番船に三条。二番船に、三条西・壬生・四条・錦小路。三番船に東久世・沢。
※この日、壬生浪士組が武家伝奏より「新撰組」の隊名拝命しました。
8月22日
【兵庫】
七卿らが、出港しました。
8月23日
長州藩士近藤登一郎が京都から帰り、政変の報せを藩庁山口へ達しました。
この日は、前日に決まっていた世子の上京について議論するはずだったのが、一転して政変への対応策協議の場となりました。
【広島】
七卿の船団が鞆浦に暫時入港しました。
8月24日
【京都】
朝廷は、禁足の朝命を無視して政変後に京都を出奔したのが不法であるとし、長州に向かった七卿の官位を停止しました。
8月25日
【防府】
長州藩は七卿を下向途中でつかまえ大阪に戻っていただいて復職を周旋する方針を決め、三田尻より急使として家老の根来上総・井原主計*を派遣して上関か岩国に抑留させようとしますが、行き違いになります。
8月26日
【徳山】
一番船と二番船が上関に立ち寄り、笠戸島宿泊しました。
【防府】
三番船は僚船とはぐれて午後4時頃、一足早く三田尻に着きました。東久世と沢は、丁度招賢閣に滞在していた監察使正親町公董から水干の衣を借りて(水干がないと礼を失するので会えないとごねたため、借りたそうです)、正親町により招賢閣に引き入れられました。
8月27日
【防府】
一番船と二番船の五卿が、徳山港の埠頭に上陸しました。客館で休息したのち、萩・清末・岩国の藩兵に守られて、陸路を通って夜三田尻茶屋の招賢閣に着きました。これで七卿一行が全員到着しました。
当初の長州藩は七卿を滞在させることに消極的で、長州に向かう途中の七卿を大坂藩邸に送還し、朝廷に対して帰京を周旋する方がよいとの考えでした。
しかし彼らがすでに到着していたため、致し方なく藩士を警衛につけました。
こうして七卿らは無事に長州へ帰り着くことができましたが、八月十八日の政変から七卿落ちに至る一連の事件は、尊譲運動の挫折を物語っていました。
8月28日
真木和泉が七卿の使者として山口に来ました。真木は、藩主毛利敬親に下向の趣旨を伝え、時局恢復の周旋を依頼しました。
兵庫からの警衛人数各山口へ引き取られます。
8月29日
【防府】
徳山藩主が三田尻の七卿を訪問し、無事の来国を祝しました。
9月1日
【防府】
周布政之助が山口より三田尻へ行き、七卿に謁しました。
9月2日
【防府】
長州藩主父子の使者として楫取素彦(小田村文助)が七卿に面会しました。
笠間藩士加藤有隣が諸卿に会い、27日までの京都の様子を伝えました。
9月3日
【防府】
津和野藩士福羽美静、山口より来て七卿に面会談判。
正親町公董公、九州は肥筑下向のため三田尻より発船。
9月4日
【防府】
長州藩の支藩である清末藩の藩主毛利元純が七卿に面会しました。
正親町少将下向の件で、佐久間佐兵衛が七卿らに会いに来ました。
9月5日
【防府】
中岡慎太郎が、父妻に別れを告げて土佐から長州へ来ました。三田尻で三条実美に面会し、土佐藩の状況を報告しました。
9月6日
三条公と東久世卿が山口を訪れ、藩主毛利敬とその世子である元徳に対面し、湯田御茶屋に泊まりました。
岩国藩主吉川経幹、岩国より山口に来、興隆寺氷上山真光院に滞在しました。
【防府】
夜、三条西季知が、杉本拙蔵(三条家来)から酒瓶に菊をさしたものを贈ってきたので、和歌を詠みました。「よく思へよく見る時は咲きくの花も心の有けんけり」
9月7日
【防府】
三条公と東久世卿は、三田尻招賢閣に帰りました。土方久元らが勝坂関門まで出迎えていました。帰りがけ防府天満宮に参拝しました。
9月9日
【防府】
四条隆謌をのぞく6人に官位が止められたと、8月24日付けの便りが京都より来ました。
七卿は、官位停止に伴い、姓名を改めました。
七卿、馬に乗り、防府天満宮に詣でました。
長州藩主父子より七卿に酒がおくられました。
9月11日
【防府】
帰京する正親町公董が九州から中関港に着いたというので東久世卿・四條卿・沢卿が出掛け、書信を託しました。
9月14日
【防府】
熊本藩士河上彦斎、正親町公の書状を持参して諸卿に面会しました。
9月15日
【防府】
藩主毛利敬親、三田尻へ。五十君家の本陣で休憩し、三田尻茶屋に入り七卿に面会。同日茶屋を発し、兄部家の本陣に休憩し、夜に入って中河原茶屋に帰りました。
9月16日
岩国藩主吉川経幹、山口の興隆寺氷上真光院を出て岩国に帰りました。
9月18日
【防府】
四条隆謌に、官位が止められたとの知らせが届きました。
9月19日
【防府】
中岡慎太郎が三田尻の招賢閣に入りました。三条卿らの詠草を賜りました。
9月20日
【防府】
京の決議につき、毛利元徳の同意書の書状を持って高杉晋作、山口より到着し七卿に謁しました。
9月21日
【防府】
中岡慎太郎が、七卿に謁しました。三条卿の使者として三田尻を出、土佐へ密かに侵入します。
9月25日
【防府】
奇兵隊百五十人、招賢閣前庭にて七卿に面会しました。
9月27日
【奈良】
天誅組、大和鷲家口で壊滅。中山忠光は長州藩大阪屋敷へ逃れました。
9月28日
【防府】
平野国臣が、七卿に拝謁、生野での義挙をときました。
10月1日
平野国臣が、毛利元徳に拝謁。生野での義挙を断られました。
10月2日
三条公が、山口へ行き、湯田御茶屋に滞在しました。
高杉晋作、山口鰐川村の借家より萩の自宅に手紙で近況を知らせました。
【防府】
夜の亥刻、沢卿が脱走。床に一書を残して、平野らの手引きで、奇兵隊総管河上弥市等とともに、義挙のため生野へ向かいました。東久世と四条と真木和泉と土方久元が警衛人を連れて、後を追いかけましたが、間に合いませんでした。
10月3日
錦小路頼徳卿、轟武兵衛を連れて山口へ。沢の脱走を知らせ、対処を話し合うため。
10月5日
真木和泉が、山口へ来ました。
【防府】
錦小路卿が帰館しました。明日より湯田温泉へ行く事が許されたとのこと。
中山忠光ら天誅組、大阪から三田尻に到着しました。
10月7日
【防府】
土方久元ら七卿の護衛の士、招賢閣から近くの正福寺へ移りました。
10月8日
【兵庫】
平野国臣、生野への途上で天誅組が壊滅したことを知りました。
10月9日
三条西公と東久世卿が、湯田へ来ました。逗留している三条を訪ねて。
高杉晋作の母妻妹が山口の晋作のもとに滞留。大神宮等々神社仏閣を見物しています。
10月12日
【兵庫】
平野国臣、沢宣嘉、生野の変を起こしました。
10月14日
【萩】
1月に士班に列した入江九一、新婚早々の妻をおいて藩の命令で京都をはじめ東奔西走していましたが、小閑を得て、この日から25日まで帰省しています。これが母妻と会った最後となりました。
10月15日
【防府】
防府天満宮の祭礼で町がにぎわいます。
【兵庫】
生野の変が鎮圧されました。
※この日、月食。
10月16日
【防府】
三条、三条西、東久世、湯田より帰館しました。
10月17日
七卿上京一件につき、小座敷において晋作他8名が集められて会議をしました。
【防府】
六卿が、奇兵隊等三百人を率いて、茶臼山にて兎狩りをしました。軍事演習の一環とのこと。
10月19日
高杉晋作、岩国藩主吉川経幹に山口に来るよう催促するための使者を命じられる。
【防府】
中岡慎太郎が三田尻に至り、湯田の五卿に復命し招賢閣に入りました。十月初旬ひそかに高知城下に入るも、武市らの投獄を聞き、脱藩したものです。
10月20日
高杉晋作が使者として岩国へ出発しました。
10月22日
【防府】
真木和泉、山口より戻り、三策略草稿を六卿に披露士しました。
10月24日
三条公が山口に来ました。
10月25日
【防府】
前原一誠が六卿に面会し、明日の引っ越しについて打ち合わせしました。
10月26日
三条公をのぞく五卿が、居住場所を三田尻茶屋招賢閣から興隆寺氷上山真光院へ移しました。
広沢真臣、藩の当所及び湯田の掛役人として七卿に挨拶しました。
10月27日
三条公が、湯田の草刈屋敷に居住場所を移しました。
●「*」がついている人名は、人名辞典に略歴が載っています。
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•第1回 山口移鎮
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•第3回 山口封鎖
•第4回 志士帰藩
•第5回 世子帰藩
•第6回 攘夷の砲撃
•第7回 山口引越指示
•第8回 真木和泉
•第9回 奇兵隊創設
•第10回 小倉藩との確執
•第11回 幕府の長州糾問使
•第12回 七卿落ち
•人名辞典
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