丸山知事、県体協会長を辞任 聖火リレー中止検討で 島根 |
3/5(金) 20:26配信 時事通信 配信より
島根県体育協会は5日、会長の丸山達也知事が同日付で辞任したと発表した。
県体協は東京五輪の聖火リレー県実行委員会に名を連ねている。丸山氏は「聖火リレーの中止検討を表明したことで、県体育協会および関係者に大変迷惑を掛けたことから、会長職を辞することとした」とのコメントを発表した。
辞任は5日付。県体協によると丸山氏が2月26日、「一身上の都合」として辞任届を提出。各理事に報告し、了承された。
会長職は知事が務めることが多く、国民体育大会で入賞した選手らへの表彰などを行っている。
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最終更新:3/5(金) 20:33 時事通信
私のコメント : 令和3年3月5日、島根県体育協会は5日、会長の丸山達也知事が同日付で辞任したと発表。辞任は5日付。島根県体協によると丸山氏が2月26日、「一身上の都合」として辞任届を提出。島根県体育協会 各理事に報告し、了承された。
島根県出身の岸 清一は、日本の弁護士、政治家。国際オリンピック委員会(IOC)委員。日本の体育・スポーツ界発展のため尽力し、“近代スポーツの父”として慕われた。岸清一は東京帝国大学在学中には漕艇選手として活躍した。
1911年(明治44年)に大日本体育協会(日本体育協会)が、私の親類 嘉納治五郎により、その設立をされた際は、その協力もされている。



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岸清一
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日本の旗 日本の政治家
岸 清一
きし せいいち
Kishi Seiichi.jpg
岸清一
生年月日 慶応3年7月4日
(1867年8月3日)
出生地 出雲国松江雑賀町
没年月日 1933年10月29日(66歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学英法科
日本の旗 貴族院議員
在任期間 1932年3月15日 - 1933年10月29日
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岸 清一(きし せいいち、慶応3年7月4日(1867年8月3日) - 1933年(昭和8年)10月29日)は、日本の弁護士、政治家。国際オリンピック委員会(IOC)委員。日本の体育・スポーツ界発展のため尽力し、“近代スポーツの父”として慕われた。法学博士。
目次
1 生涯
2 日本スポーツ界の功労者
3 脚注
3.1 注釈
3.2 出典
4 演じた俳優
5 外部リンク
生涯
慶応3年7月4日(1867年8月3日)、松江雑賀町(現在の島根県松江市雑賀町)に松江藩の下級武士・岸伴平の次男として生まれる。小学校時代の同級生に、若槻禮次郎(第25代・第28代内閣総理大臣)がいる。岸と若槻は血のつながりはないが、近い親類だった[注釈 1][1]。
松江雑賀小学校、島根県第一中学校(現在の島根県立松江北高等学校)、大学予備門を経て東京帝国大学法科大学英法科に進学。
1889年(明治22年)7月に卒業後は代言人免許を受け、岸法律事務所を東京の京橋に設置、1893年(明治26年)に制度改正により弁護士となる。
法律の調査、視察の為の数回の渡欧後、1910年(明治43年)10月に法学博士となった。1915年(大正4年)5月から1933年(昭和8年)10月まで大日本弁護士会会長を務めるなど法曹界の重鎮であり、特に民事訴訟法の権威であった。
1932年(昭和7年)3月15日には勅選の貴族院議員となり[2]、死去まで務めた。
1933年(昭和8年)10月29日、病気のため死去。66歳没。
日本スポーツ界の功労者
岸記念体育会館
日本スポーツ協会にある「岸清一先生」の像(2019年6月25日撮影)
岸はまた、日本スポーツ界発展に尽くした人物として知られる。岸は東京帝国大学在学中には漕艇選手として活躍した。
1911年(明治44年)に大日本体育協会(日本体育協会)が嘉納治五郎によって設立された際には維持員として参画し、1916年(大正5年)には副会長に就任。1921年(大正10年)3月に第2代会長に就任した。
1920年(大正9年)6月には日本漕艇協会(日本ボート協会)初代会長に就任した(1921年(大正10年)6月まで、以降は顧問となる)。
1924年(大正13年)6月 国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任し、死去するまで務めた。また野津謙専務理事(後に日本サッカー協会(JFA)会長)と共に大日本蹴球協会(のちのJFA)の国際サッカー連盟(FIFA)加盟(1929年)にも尽力した。
1932年(昭和7年)に開催されたロサンゼルスオリンピックにはIOC委員として参加している。
1924年(大正13年)3月に紺綬褒章を受章した。岸の故郷である松江市の島根県庁には岸の銅像があり、1964年に除幕式が行われた際には当時のIOC会長であったアベリー・ブランデージが自ら出席し、『東京オリンピックの開催は岸の偉業である』と讃辞を述べ、岸の功績を讃えた[3]。
岸の死後に遺言により100万円の寄付がなされ、1940年(昭和15年)にお茶の水[注釈 2]に岸記念体育会館が建設され、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催を機に同年7月に渋谷の代々木に移転された。2018年(平成30年)11月8日、日本スポーツ協会理事会で岸記念体育会館を新国立競技場の隣接地に移転し「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」と名称を改めることとなり、館内に「岸清一メモリアルルーム」が設けられることが決定した[4]。
2019年(平成31年)4月6-7日、岸清一の胸像が同月30日に竣工した「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」の前に岸記念体育会館から移設された[5]。
岸の故郷である松江市では岸の名を冠した『岸清一賞 国際文化観光都市 まつえレディースハーフマラソン』大会が毎年3月に開催され[6]、毎年7月下旬には『岸清一記念 松江市民レガッタ』大会が開催されている[7]。また岸が漕艇選手出身だったということで松江市に2019年3月、『岸清一記念艇庫』が建てられオープンした[8]。
脚注
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注釈
^ 岸の母と若槻の継母が姉妹、また岸の姉が若槻の異父兄の妻である。
^ 現在のJR御茶ノ水駅近く聖橋の向かいにあり、2007年まで日立製作所本社があった。
出典
^ 『若槻礼次郎自伝 古風庵回顧録 明治、大正、昭和政界秘史』 3-21頁
^ 『官報』第1561号、昭和7年3月16日。
^ 出典:1998年2月26日朝刊 朝日新聞
^ “移転後の名称決まる=競技団体入居の岸記念体育会館”. 時事通信. (2018年11月8日) 2018年11月18日閲覧。
^ “岸記念体育会館 岸清一像の清掃を実施” (プレスリリース), 日本スポーツ協会, (2019年4月5日) 2019年6月28日閲覧。
^ “第40回記念 岸清一賞 国際文化観光都市 まつえレディースハーフマラソン” (日本語) (PDF) (プレスリリース), 国際文化観光都市 まつえレディースハーフマラソン実行委員会事務局 2019年8月31日閲覧。
^ “岸清一記念 松江市民レガッタ (HTML)” (日本語). 松江市民レガッタ実行委員会. 2019年8月31日閲覧。
^ "岸清一の故郷、松江に艇庫". カナロコ. 神奈川新聞社. 30 March 2018. 2018年8月31日閲覧。
演じた俳優
岩松了 - 2019年 、NHK大河ドラマ・『いだてん〜東京オリムピック噺〜』
外部リンク
岸清一 とは - コトバンク
岸清一 - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分)
先代:嘉納治五郎 日本体育協会会長
第2代:1921年 - 1933年
次代:大島又彦








































