母校での出会いで培う「先見の明」 石橋湛山没後50年 |
母校での出会いで培う「先見の明」 石橋湛山没後50年
吉沢龍彦
母校での出会いで培う「先見の明」 石橋湛山没後50年:朝日新聞デジタル (asahi.com)
配信より

山梨県内出身の言論人で元首相の石橋湛山(1884~1973)が今年、没後50年を迎えた。大正時代に植民地放棄の論陣を張るなど、将来を的確に見通す視点は、母校の県尋常中学校(後の甲府中、現在の甲府第一高校)や早稲田大学で培われた――。そんな湛山の歩みを、北杜市出身の哲学者で西武文理大学長(早大名誉教授)の八巻和彦さんが講演で振り返った。
湛山は1884(明治17)年に東京で生まれ、翌年、甲府に転居した。父は後に日蓮宗の法主も務めた僧侶で、小学校時代は県内の別の寺の住職に預けられて育った。県尋常中学校には飛び級で入学したが、2度落第し、卒業まで7年かかった。
八巻さんは、そのおかげで湛山は運命的な出会いに恵まれたと指摘する。最終学年の年、札幌農学校でクラーク博士から教えを受けた大島正健校長が赴任し、湛山が「一生を支配する影響を受けた」「落第の結果として大島校長の教えを学ぶことができたことは幸いだった」などと回想したことを紹介した。
卒業後は第一高校(現在の東京大)をめざすが失敗し、早稲田大に進む。そこでプラグマティズムと個人主義を旨とする哲学者の田中王堂に教えを受けて、強い影響を受けた。
そのような学生時代を経た後に言論活動を開始した湛山は「透徹した将来を見る目を持っていた」(八巻さん)。明治天皇が亡くなった年に書いた評論では、神宮建設は愚かだと批判。その代わりに、ノーベル賞にならって「明治賞金」を作ることを提唱した。「ノーベル賞ができて10年しかたっていないときに、賞の評価が高まっていくことを見通していた。恐るべきものがある」と八巻さんは指摘する。
湛山が同時期に女性の地位向上の必要性を説いたことや、日本が植民地拡大を続けている時に「小日本主義」を掲げたことも紹介。戦後も、1961年に「日中米ソ平和同盟」の構想を発表したことを挙げてこう語った。
「21世紀のいま、この案は現実性を持っていると言えないでしょうか。中国が元気になり、ロシアが大暴れしている状況で東アジアの平和を維持するには、この視点が必要だ」
講演は山梨市内で3日、早稲田大の同窓生でつくる校友会県支部の会合であった。支部長の金丸康信さん(80)は甲府一高の同窓生でもあり、高校時代に湛山が来校した時の思い出を披露。「講演では『自分は2度落第しても総理大臣になれた。諸君もがんばりなさい』と訓示してくれた」と語った。(吉沢龍彦)
◇
1884年 東京に生まれる。翌年、父が山梨県内の寺の住職となり、母と甲府に転居
1894年 望月日謙師に預けられる
1895年 県尋常中学校(現甲府一高)に飛び級で入学。2度落第し最終学年で大島正健校長に出会う。
1903年 早稲田大に入学し、田中王堂の哲学から強い影響を受ける
1907年 文学部を首席で卒業
1911年 東洋経済新報社に入社
1912年 明治天皇死去。評論「愚かなるかな神宮建設の議」で「明治賞金」創設を提言
1921年 「一切を棄つるの覚悟」「大日本主義の幻想」を執筆して小日本主義を提唱
1939年 東洋経済新報の社員を集め、言論圧迫が来ても良心に反する行動を絶対に取らぬよう指示
1945年 太平洋戦争の敗戦直後に、戦後日本の「平和主義、産業振興」を提言
1946年 衆院選に立候補して落選するも大蔵大臣に就任
1947年 衆院議員に当選。しかしGHQから公職追放処分を受ける。甲府一高に「Boys be ambitious!」の書を贈呈
1951年 公職追放解除
1956年 自由民主党総裁に選出され首相に就任
1957年 病気のため辞任
1961年 「日中米ソ平和同盟」の構想を発表
1973年 死去。享年88歳
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