「⽯橋湛⼭」ってどんな人? 石破氏がたびたび言及◇魅力、功績は? |
「⽯橋湛⼭」ってどんな人? 石破氏がたびたび言及◇魅力、功績は?
2024年12月25日 時事通信 17時00分 配信より
「⽯橋湛⼭」ってどんな人? 石破氏がたびたび言及◇魅力、功績は?:時事ドットコム
配信より

石破茂首相が国会演説などでたびたび引用する石橋湛山(いしばし・たんざん)。
その首相在任期間は65日と短命ながら、
今も「湛山ファン」を自称する国会議員は多い。
没後半世紀を経ても色あせない魅力とは―。
(デジタル編成部 平田秀祐)
◇⾔論界出⾝のリベラル宰相
「国政の大本について、
常時率直に意見をかわす慣行を作り、
おのおのの立場を明らかにしつつ、
力を合せるべきことについては相互に協力を惜しまず、
世界の進運に伍(ご)していくようにしなければならない」
これは首相就任後の石橋湛山が行った施政方針演説の一節。
2024年11月29日、石破首相は所信表明演説の中で
このくだりを引用しながら、野党に協力を呼び掛けた。
熱心な「湛山ファン」として知られ、就任前に出版した著書で
「気骨のリベラリスト、石橋湛山に学ぶべきことは多い」
「湛山政権が続いていれば全く違う日本が出現したのかもしれない」とも書いた石破氏。
引用した演説が行われた1957年2月4日は、くしくも自身が生まれた日でもある。
◇軍部やGHQにも屈せず

石橋湛山で有名なのは、
戦前に東洋経済新報の記者として発表した
「小日本主義」と呼ばれる思想だ。
日本が国際社会から孤立する原因となっていた、
軍事力を背景にした領土拡張主義に異議を唱え、
植民地を手放すことを主張。
「広大なる支那(中国)の全土を我が友とし(略)
世界の弱小国全体を我が道徳的支持者とする」
ことの利益を説いた。
軍拡よりも経済合理性を追求するその姿勢は、
当時の時代背景を考えると
「軍部批判」と取られかねない大胆なものだった。
反骨精神は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に対しても向けられた。
46年5月、非議員のまま吉田内閣の蔵相に就任した湛山は、
戦争で疲弊した経済を再建するため積極財政を推進。
その一方で、駐留軍経費を日本が負担する「終戦処理費」に臆せず切り込んだ。
これがGHQの怒りを買ったのか、
47年衆院選で念願の議席を手にした直後、公職追放の指定を受けてしまう。

石橋湛山が自民党総裁選を戦った(写真左から)岸信介と石井光次郎。決選投票で石井と「2、3位連合」を組んだ湛山が勝利した【時事通信社】
4年後に追放が解除されると、政治活動を再開。
56年12月の自民党総裁選で勝利し、72歳で首相に就任したが、今度は病気に襲われた。
石破首相が引用した演説も、実際は臨時代理の岸信介外相が代読したものだ。
志半ばで辞任した後は、自身が掲げた「日中米ソ平和同盟」の実現を夢みて、
中国やソ連との友好親善に奔走。
88歳で亡くなるまで、保守政界のリベラル派を代表する存在であり続けた。
◇何を学び、生かすのか
死去から50年が経過した2023年6月、超党派の議員連盟「石橋湛山研究会」が発足。
湛山の政治哲学を学ぼうと、石破氏や国民民主党の古川元久税調会長ら
多くの議員が与野党の垣根を越えて集まった。
「『経世済民(世の中を治め、民の苦しみを救う)』という考え方を体現した人。
短い任期ではあったけれども大きな業績を挙げた内閣だった」。
在任期間が石橋内閣を超えた24年12月5日、
石破首相は衆院予算委員会で湛山について問われ、再びこう言及した。
何度も困難に直面しながら批判を恐れず信念を貫いた湛山。
10月の衆院選で大敗し30年ぶりの少数与党を率いることになった首相は、
そこから何を学び、今後の政権運営にどう生かしていくのだろうか。

【参考資料】
・「保守政治家 わが政策、わが天命」(石破茂著、講談社)
・「石橋湛山評論選集」(石橋湛山著、東洋経済新報社)
・「石橋湛山」(姜克實著、吉川弘文館)
・「官報号外 昭和32年2月4日」
(2024年12月25日掲載)
私のコメント : 令和7年1月25日、山口県立 山口高等学校 卒業生で、美智子上皇后さま、岸信介元総理大臣、石橋湛山元総理大臣、藤山愛一郎代議士 等 との間に まじかに、面談 経験をしたことがあるという 卒業生については、現在、私しか、いない。
令和7年1月23日、学習院大学史料館(東京都豊島区)が、平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」を開催された後の対応が、私の許にあり、よって、学習院大学史料館 学芸員 白政晶子様 と私は、対談する。
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令和7年1月23日、島根県 津和野町教育委員会 係長と私は、対談する。











































